HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

フレンチ・コネクション

昨日のエントリーは、思いの外ブックマークや、アクセスをいただいてびっくりしてしまった。

正直に言えば、「取り違えた真の豊かさ」の追求によって東京以外の日本で起こっていることを活写したかった。心情的には、「中途半端な田舎」の量産や、国土の画一化、地方文化の崩壊現象は、起こって欲しくない事態だ。

ずいぶん前になるが、家族と南フランスを旅をした。

その時感じた豊かさは格別だった。巨大ショッピングセンターのない幸せの形が目の前にあった。古い古い街全体が最新のブランドショップや、最新のアートの展示場になっていた。

例えば、トューレトシュルルーという鷹巣村は小さな小さな村は、街角のあちらこちらがアートギャラリーであり、工房であり、アトリエになっていた。

エクソンプロヴァンスでは、シャンブルドットと言われるフランス風のベッドアンドブレックファーストに泊まった。


買いものも歩いて出かけ、雨が降ればカフェであまやどりする、そんなのんびりした生活文化が感じられた。あまやどりしていたら、地元の人が宿まで送ろうと行ってくれる楽しい思い出までできた。

エクソンプロヴァンスは、南仏の中核都市なのだそうだ。美しく、伝統を感じた。街角には文化があふれていた。日本の文化まで・・・。

余談だが、私の会ったフランス人たちは、不思議なくらい日本の文化に興味を持ってくれていた。エクソンの街角のこの本屋にも、日本の漫画だけでひとつの大きなコーナーができていた。巨大ショッピングセンターがなくともなんでも手に入るのだ。商品が安く供給されることだけが能ではない。

この街をすばらしいと思わない人はいないと思う。住むことができるのなら、こういう街に住みたいと感じる美しさと、人と人とのやさしい交流がここにあるとつくづく感じてきた。

「木を植えた男」は比喩であったとしても、前世紀のある時期にはこの地方は荒廃していたと聞く。

木を植えた男

木を植えた男

それぞれの地方で「美しい村運動」など、復興の気運が高まり、世界的な観光地、リゾート地として復活したのだと。

きちんと文献やリンクを示すことはできないが、あちこち旅した印象で言えば、日本と米国以外では巨大ショッピングセンターは存在しないか、存在してもごくぞくわずかしかない。あっても、巨大都市の一角にあるだけ。日本や米国のように「中途半端な田舎」にはない。

これは歴史的街並みと街のつながりの根拠地である商店を守るべく都市計画、景観規制が日本とは比べものにならないほど厳しいことに由来する。役所仕事にはうんざりしている部分があるのだが、保守的であることは歴史とコミュニティーを守った。

現在、ヨーロッパが経済的には苦境に陥っていることに象徴されるように、伝統を重んじる自由主義はなにかと足かせが多い。それでも、経済的危機は一時のもの。数百年、数千年後にも記憶にとどめ続けられるべき歴史的な遺産を、そこに住む人々のコミュニティーと共に守っていくのだという意思を、南欧を旅して強く感じて帰ってきた。

日本もこれから数々の経済的な危機を迎えることと思うが、子孫になにを残してあげるべきなのかを真剣に考え、行動する時が来ているのはいうまでもない。


■追記

ちょうどタイミング良く、「木を植えた男」の話しがホッテントリーで上がっていた。

1913年フランス・プロヴァンスの荒れた高地で、一人の男がどんぐりの種を植えていた。周囲の村はどこも貧しく、住人たちは神経をいらだたせて争いが絶えない――。そんな場所で、羊飼いの男は悠然とどんぐりを植え続けていた。作者ジャン・ジオノが若いころに実際に出会った人物だとされており、名前はエルゼアール・ブフィエという。

モノを創れないやつらは規則をつくる/たとえば荒れ地に木を植えるように - デマこい!

id:Rootportさん、ありがとうございます。