HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

集合的無意識と「虐殺器官」

集合的無意識って、いまのTwitterみたいなものかの。ちょっとした言葉の端々から伝わる空気。そこから醸し出される言葉に成らない言葉。今回の一連の情報の流れを自分なりに見ていて、言葉で理性的に伝わる以上の空気がそこにある気がしてならない。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気の研究」の延長でいえば、「虐殺器官」は言葉がつむぐ言葉(空気)の恐ろしさを極端な形で表した小説。

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

言葉によって集合的無意識がかもしだされるのなら、昔といまとでは空気の醸造に要する時間が圧倒的に短いはずなのだが、どうもそうではない。空気の発生、水がはいって空気がかわる期間は昔から変わらない。やはり「器官」的な問題だからか?

空気を作り出せる主体があるとすればそれは確かに権力といえる。昔は、集合的無意識と政治権力の一致が国の最高の形であると信じていた。いまは、それはとてもおそろしい社会だと感じる。

空気とか、集合無意識を意図的にいじる権力はとても危険。自由の方が大切。ああ、でもあまりに野放図な自由は怠惰を産むし・・・。

「ありかた」がいまの日本のように或る意味強制されてしまうのか、意思と理性と自由により議論して決めていけるか?