HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

アダム・スミスはフェアプレイの経済が発展することを「発見」した。

書く前からお前みたいな経済音痴がアダム・スミスについてなんて書くな、という声が聞こえてきそうで、なかなかこのテーマに取り組めなかった。書こうとしたが、書けなかった

「銃、病原菌、鉄」、「繁栄」、「『道徳感情論』と『国富論』の世界」を並べてみて、アダム・スミスはフェアプレイの経済が発展することを「発見」したのだと主張したい。


銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎

銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎


繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史(上)

繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史(上)



以下、考えがまとまらないまま、「『道徳感情論』と『国富論』の世界」から引けるだけ引きたい。

まずは、「胸中の公平な裁判官」から。

p.43

ある人が、見知らぬ人から金銭を奪うために、その人を殺害したとする。私たちは、まず行為者の立場に立って、胸中の公平な観察者がそのような行為を行うか否かを検討する。(中略)次に、私たちは行為を受けた人、つまり殺害された人の立場に立って、自分がそのような行為を受けたならば、どのような感情を引き起こすかを想像する。

四半世紀前にまだ認知心理学/感覚知覚心理学の学究であったころ、佐伯先生が「認識」を成立させる要因として、「小人をあちこちに飛ばす」という比喩を行っていた。カップひとつとってみても、右から、左から、上から、下から、あるいは昼間に見るのか、夜見るのかでも、網膜に対する物理的な刺激としては全く違う。しかし、私たちが一貫した「カップ」という認識を行えるのは、心的に「小人」を空間や、時間を超えて「飛ばして」さまざまな視点から観察するしたときの認識を得ることができるからだと論じていた。

認知科学の方法 (認知科学選書)

認知科学の方法 (認知科学選書)

人間として、正常な認識能力を持っている限り、アダム・スミスの「胸中の公平な観察者」を持っていると言っていいのだと私は思う。


「繁栄を導く人間本性」という章のタイトルからして、「繁栄」を連想させる。

p.81

最低水準の富がない、つまり貧困の状態にあることが、なぜ悲惨なのか。もちろん、不便な生活を送らなければならないからである。しかし、それだけではない。その社会で最低限必要だとされる収入を得られない状態にある人びとの悲しみや苦しみに対し、私たちは、同感しようとしない。私たちは、貧しい人を軽蔑し、無視する。このことが、貧困の状態にある人びとをいっそう苦しめる。

つまりは、人は「認知」を、愛や尊敬を必要とする社会的な生き物なのだ。以前、ネット社会において物質的な欲求と切り離されているので「認知」が貨幣としての働きをもつのではないかと論じたことがある。200年前にアダム・スミスには熟知されたことがらだったのだと知った。

十分に貧困から解放され、自分が自由だと感じられる社会において、ネット上の認知関係のやりとりは貨幣の意味を持つようになる。なぜなら、基本的な生存に対する欲求を満たされると、人間は元々認知を求める欲求をもっているから、次は認知を強く求めるようになる。

見えない自由がほしくて、見えない銃をうちまくる -ネット上の貨幣としての認知にインフレーションは来るのか?-: HPO:個人的な意見 ココログ版

そして、物質的な欲望と切り離されたネット社会ですらリスペクトだの、アクセス数だの、ぶくまの数だのが取りざたされ、さまざまな「事件」が起きていることを見ても、際限のない人間の「繁栄を導く人間本性」であることが実証されている。


「繁栄」のテーマとしてマット・リドリーは、ヒトの祖先がネアンデルタール人と異なる道を歩めたのは、分業することができたからだと強く主張していた。この主張は、アダム・スミス以来の経済学の大原則なのだと知った。

p.158

多くの利益を生み出すこの分業は、もともとは、それが生み出す一般的富裕を予見し意図するという人間の英知の結果ではない。それは、そのような広範な有用性を目指す訳ではない人間本性の一つの成功、すなわちある物を他の物と取引し、交換し、交易する性向の、きわめて緩慢で漸次的であるが、必然的な結果なのである。

「繁栄」はまさにこの分業、比較優位の発揮*1を人類10万年の歴史において実証した本だと私は思っている。


この大切な分業が成り立つ条件をいくつかあげている。当然、その中にフェアプレイの精神も出てくる。

p.165

スミスは、分業が進むためには、まず市場がなくてはならないと考えた。しかし、そのための市場とは、独占の精神によって支配される市場ではなく、フェア・プレイの精神によって支配される市場でなくてはならない。フェアな市場がある、世話の質を高め、よい評判を獲得すれば、正当な報酬が得られるという見込みがあってはじめて分業が可能になるのである。このような見込みのもとで、社会的な分業が進歩する。そして分業が確立すれば、社会のすべての人びとが、見知らぬ他人の世話、つまり他人の労働の生産物によって自分の生活を支えて行くことができる。スミスは、このような社会を「商業社会」(commercial society)と呼ぶ。

そして、この市場がそなえるべき条件もきちんとスミスは明言している。

p.169 - 171

スミスの説明において注意すべき点は四つある。(中略)

第四に注意すべき点は、市場が公共の利益を促進するためには、市場参加者の利己心だけでなく、フェア・プレイの精神も必要だということである。需要過剰のときに現実の価格が上がるのは、供給者と結託して、これまでの価格で横流ししてもらおうとする需要者がいないからである。供給過剰のときに現実の価格が下がるのは、需要者と結託して、これまでの価格で買い取ってもらおうとする供給者がいないからである。また、市場価格が自然価格に一致するのは、資本、労働、土地のサービスが、部門間を自由に移動できるからであり、それが可能なのは、どの部門も資本、動労、土地のサービスが参入するのを妨げる人為的な障壁がもうけられていないからである。スミスは、供給側に独占がある場合、あるいは独占に匹敵する特権が与えられている場合、自然価格を上回る市場価格が維持されると考える。

前半で述べられていることは、いまの社会ではほぼ当たり前のことであるが、供給においても、需要においても、独占を禁止する行為がフェア・プレイの最低限の条件なのだろう。そして、スミスの主張に従えば、自然に市場の力によって徐々に調整されるべき需要と供給の構造が、政府や特権階級的行為によって、ゆがめられ、より大きな「悪」を生むことになる。これは「繁栄」のマット・リドリーの主張そのものだろう。

当時のイギリスはさまざまな特権階級と、政府の意図的な政策が横行していたようだ。アダム・スミスの「発見」以来、法律と道徳は市場を通してより広がって行ったと私は信じる。しかし、どのような経済理論もアダム・スミスのフェア・プレイを前提にしなくては成り立たない。いや、フェア・プレイを通り越して、福祉(チャリティー)を自主的に実行する経済主体へと進化して行かなければならないのではないだろうか。


まだ、なにも立証できていないが、明日に備えてそろそろ寝なければならないので、一旦ここで切り上げる。気が向いたら続きを書く。

*1:それぞれの経済主体が、自分が得意なものに特化することが、交換する当事者すべての利益になること