HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

チャンスは一度 : 「存在の耐えられない軽さ」

「存在の耐えられない軽さ」の新訳を読んだ。7、8年前に一度友達から借りて読んだはずなのに全然印象が違う。新旧訳がそれぞれ底本にしているテキストの違いなのか?

存在の耐えられない軽さ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-3)

存在の耐えられない軽さ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-3)

新旧の訳の比較を記憶の中でしてみる。まず、第三部「理解されなかった言葉」のサビナとフランツのくだりが全く新鮮に感じた。第四部「心と体」のテレザがトマーシュ以外の男と寝るくだりもまったく記憶になかった。第六部「大行進」もあやしい。テレーザの「自分にとって人生はこんなに重いのに、貴方にとっては耐えられないほど軽い」という非常に印象的な名台詞も、今回見つけられなかった。これらの違いがクンデラ本人が手を入れたことによる違いなのか、私の記憶違いなのかわからない。

それはさておき....

以前、こう書いた。

地域で生きると言う覚悟とは、「俺はこんなもんだ」というよい意味での諦念をもつことだ。

「存在の耐えられない重さ」 - HPO:機密日誌

考えてみれば、全編を通してクンデラは自分の地域=祖国をいかに捨てられないかを書いているとも言える。サビナのように「裏切る」ことにより祖国を確認し続けることでも、トマーシュのように一旦は祖国を離れても愛のためにまたも戻るのであれ、祖国である「ボヘミア」(チェコスロヴェニア)が人生の軸になっている。また、そうした自分の生き方の根源は国とセックスを通してしか確認しえないというのも、ひとつのテーゼだ。なぜサビナとフランツは完璧な結びつきでありながら相違を浮き出すことにしかならなかったか、トマーシュとテレーザはこんなにも不完全な結合なのにお互いを祖国に結びつけたか、そこには国とセックスの問題がある。

そしてふたたび、彼の心に私たちがすでに知っている考えが浮かんだ。人生はただ一度しかない。だから私たちはどの決心が正しくて、どの決心が間違っているのか知ることは決してできない。

そして、ここでの人生の生き方とは、全体主義がおしつけるキッチュなものではない。食べ物を食べたらトイレを使わなければならない、異性を見れば欲望を覚えるというごくごく人間的なことがらだ。

ちなみに、本書の大半を大渋滞の中のバスで読んだ。大渋滞の中のバスの大問題とは、いつトイレを使うかだ。実際、数度に渡り緊急停車をしなければならなかった。また、渋滞に対応してどのルートを通ればいいのかも、一度きりしかできない判断であった。一度きりの判断で、同じバスにのるすべての人に影響を及ぼす。生きるって大渋滞の中のバスのようなものかもしれない。

Einmal ist keinmal. 一度はものの数に入らない。一度とは一度も、というのにひとしい。ボヘミアの歴史は二度と繰り返されることはないだろう。ヨーロッパの歴史もまたそうだ。ボネミアの歴史とヨーロッパの歴史は、人類の宿命的な未経験が描き出したふたつの素描なのだ。歴史もまた個人の人生とまったく同じように軽く、耐えられないほど軽く、綿毛のように、舞い上がる埃のように、明日にも消え去ってしまうもののように軽いのだ。

私がクンデラから学ぶべきはここだ。


■参照