HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「明日のことを思い煩うなかれ」

父がよくマタイから引用していた。父は、若い頃に習った古語風の翻訳の聖書の言葉をいつも使っていた。今日を精一杯生きればば、明日のことを寝る前にぐずぐず考えたり、いつまでも後悔したり、明日おこることを恐れるなという意味で使っていた。この言葉を若い頃から聴き続けてきたせいか、ほぼなにがあっても私は夜寝れる。経営者に必要な資質をひとつだけあげろといわれれば、身びいきで夜寝れることをあげる。お陰さまで10分あればほとんどどこでもぐっすり寝れる。

マタイの福音書の該当箇所は、残念ながら現代語の訳しかネット上で見つけられなかった。

6:29
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった
6:30
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
6:31
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

マタイによる福音書(口語訳) - Wikisource

ソロモンの頃、あるいはイエスの頃ですら、「一日の労苦は、その日一日だけで十分」であったのだ。まして、福祉の発達したいまに生きている私は「明日を思い煩う」必要はない。やっと気づいた。必要なのは、人と地域のお役にたてるかどうかだ。

私はずいぶんながいこと明日を思い煩い、明日の恐怖にかられて仕事をしてきた。自分の力を尽くして戦い続けることが自分の使命であると信じてきた。「明日を思い煩う」限り私に安穏はない。今日を目一杯生きることと、明日の恐怖に駆られることは別のことだとやっとわかった。

路傍の一輪の花に恐れがあろうか?自分を認めさせてやるという欲があろうか?自分はなんのためにここに咲いているのかという迷いがあろうか?

恐れるのはもう卒業しよう。ただ、ただ今日一日を精一杯に生きるだけで足りる。