HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

パイドロス ふたたび

id:morutanさんから、ご紹介いただいた「現代思想としてのギリシア哲学」を勉強している。

現代思想としてのギリシア哲学 (ちくま学芸文庫)

現代思想としてのギリシア哲学 (ちくま学芸文庫)

古東先生の古代ギリシアの横断記を読んでいるとどうも北米を横断しながら「クオリティの哲学」を語る「禅とオートバイ修理技術」のパイドロスが言っていたことが疑わしくなる。

禅とオートバイ修理技術〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

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なんといったらよいのだろうか。パイドロスが次第に目覚めていくように、本書を数ページ読んでは眠り、眠りながらブログになんと書くか夢想が浮かんでくる。

パイドロスが語るように、確かに、一度古代ギリシアにおいて神は死んだ。神話から哲学にいたる道があまりにも現代哲学と相似している。

<目次>
序章 月から落ちてきた眼
第1章 哲学誕生の瞬間―タレス
第2章 逆説の宇宙―ヘラクレイトス
第3章 存在の永遠―パルメニデス
第4章 非知の技法ソクラテス
第5章 ギリシアの霊性―プラトン
第6章 あたかも最期の日のように―M.アウレリウス

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パイドロスは「在ること」、ピュシスの驚きを、ソクラテスプラトンアリストテレスが塗り込めてしまったと語る。アルテーとして、全身全霊を込めて技術を磨いていた精神が、リニアな理性に塗り隠されてしまったと語っていた。

しかし、古東先生によれば、逆にソフィストたちが現代のような常識を重んじ、市民の合意形成を重要視する姿勢でいたのに対し、タレスや、ヘラクレイトスからソクラテスにいたるギリシア哲学の流れは、Aでもない、「非A」でもない、異邦人としかいいようのないような眼を持って現実の生活を見直すことを促しているという。その根底には「在ること」への驚き、つまり生成と消滅への驚異だ。パイドロスの主張と古東先生のおっしゃるソフィストの働きは全く逆だ。


ここに至ったときに、私はギリシア哲学の系譜がべき乗則とカオスの関係につながってみえて仕方がない。「在ること」とは、非線形でカオスとしか見えないな現象の海の中で、自己組織化という得難い奇跡が立ち上ることではないか。「在り続けること」とは、この奇跡的なプロセスが常に立ち上りつづけること。燃えている物質は入れ替わり続けても、火は火であるように、ひとつなのだと見える現象も実は常に自己組織化し、新しく立ち現れる続けている。自己組織化した認識は生じ続ける。自分自身の生物としてのからだには非線形な現象が満ち溢れている。その中で、そもそも恒常性を保って生きていられること、「私」という意識をもてること自体が奇跡としか私にも思えない。ここになんらかの力が働いているとしか私には思えない。そこが、自己組織化臨界の境なのだと思う。

べき乗則から諸現象を見るときに、非線形リアクターから生まれるカオスと、自己組織化現象により生まれる生命との境があるように思える。対外のカオスの状態では、恒常性は保ちえない。もちろん時間的・空間的なスケールのレイヤーがそれぞれに存在するわけだが、「私」という時間・空間スケールにおいて、カオスと自己組織化との境界がどこかに引かれなければならない。この境界をどこにひくか、どう乗り越えるのか、乗り越えないのかが、ギリシアの神話の誕生から、哲学にいたる系譜であるように私には思える。

意識の黎明であるといってもいい。


逆にいえば、非線形リアクターから線形な意識を形成しているがゆえに、カオスであり、フラクタルであり、べき乗則なさまざまな現象を認識し、立ち向かうことが人間に可能であると私には思える。そして、いかに意識を研ぎ澄まし、落ち着いてことに立ちむかい、非線形な情動の上に明敏な意識を保ち続けるかが次の課題となる。同様にして、非線形リアクターの更にメタな複合体である組織体をいかに組織するか、リーダーシップを発揮するかも見えてくるように感じる。


■参照

考えてみれば、この先にブラックスワンをめぐるタレブの哲学と、安冨歩先生のお考えを位置づけることができるかもしれない。