田舎に住むも、都会に住むも、自由だ。
ただ、田舎は都会がなけりゃ生きていけないし、都会は田舎があるからいばっていられる。どっちもどちらかがなくては成立しないことは分かっていた方がいい。*1
「首都消失」なんて小説があったり、「首都以外消失」なんて映画があったりなかったりとか聞いたけど、どっちもパニックもののカテゴリー。田舎がなくなっても、都会がなくなっても、起こるのはパニック以外のなにものでもない。*2
はてな界隈で話題のこの3つのエントリーを読んだ若い人が「じゃ、都会だけとればいいじゃん」って思ってしまうのではないかと、どうも気になっている。
と、大風呂敷をひろげたもののなんの考えがあるわけでもない。そもそもエントリーの冒頭で手ごわいお三方を並べてしまうことが間違っているに違いない。
私の経歴はそこら辺探せばでてくるしがないもんだけど、22才の時点で確実に自分の田舎に帰ってくるまいと思っていた。20年たったいま、田舎でぬくぬくと暮らしている自分がいる。
20代前半の私ははりきっていた。バブルの時代だったこともあり、これから自分の知恵を生かしてなんでもできるのだと思っていた。まだネットは普及していなかったが、異業種勉強会だの参加したり、原書の翻訳プロジェクトにかかわったり、部門コンピューティングで自分でRDBMSを設計したりと*3、「かしこい」力は全能だと思っていた。ああ、そう、マイナーな大学だけど米国でMBAをとってきたりもした。
だから、田舎に帰ってきて苦労したさ。死ぬかと思った。自分で選んで帰って来たけど、「かしこい」ということがなんの価値にもならないのだと思い知らされた。とってもとっても大変だった。
田舎にくると逆に合理性を発揮したくなるのは事実。なんでこんなにうざいのと思うくらい、いろいろ人間関係が入り組んでいる。自分でこういう仕事がしたいと思っていても、いろいろいろいろブレーキがかかる。
けど、いまはとても楽しい。街に受け入れられるまでがほんとうに大変。いまも受け入れられたわけじゃないけど、父祖の積んできた徳(信頼関係の網)のおかげでなんとかかんとかやっている。都会ではできない仕事のやり方があるんだなと最近はつくづく実感している。
具体的には、なかなか話しずらいのだけど、この辺とか読んで察してもらえると嬉しい。
歴史の重みってあるなって、田舎のこの街に住んでてつくづく思う。4代まえくらいの話なんて、日常茶飯事。噂話の中に、私の先祖の話が普通に出てくる。だから、私くらいの中途半端な「かしこい」やつなんて過去にいくらでもいたのがよーくわかる。俺なんてたいしたことないな、と。最近は、全国資本の連中が入ってきたりもするけど、やはりなんか芯になる部分があってはじめて街なんだなと。
都会ってまだ試行錯誤の要素が多い。その中で勝ち残っていけるのはほんの一握り。また、数ある仕事の中で、ほんとうに「かしこさ」がお金になる職種ってほんのひとにぎり。他はEQっつうか、世渡りのうまさとか、そういったもので決まる。ものの本によると同じ資格あるいは仕事についた上では、年収はまったくIQと比例しなかったそうだ。
- 作者: ダニエル・ゴールマン,土屋京子
- 出版社/メーカー: 講談社
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あまりに多くの勉強会だの、異業種交流会だの参加したが、20年たったいまそうした会から得た人脈で続いているものはない。あんがい地味な地元のつながりやら、同級生とのつながり、仕事でお互いに苦労しあった仲間とのつながりが結局残っている。SNSとか、ブログで知り合った方々の方が長続きしているくらいじゃないかな。
とかいうと、都会の暮らしに否定的な意見とみられがちだが、再分配というか税金を集めて分配する機能がないと日本全体の形が保てないのも事実。id:essaさんがおっしゃるように、これから田舎と都会のバランスが大きく崩れそうなのが恐い。それでも、田舎は田舎でしぶといから、どんなに貧乏したってやっていこうって連中がでてくるだろう。
あ、大事な田舎にある「インフォーマル」について書き忘れた。
ま、父祖が築いたもの、歴史のさまざまな試みに耐えてきたものは、それなりに意味があると思う。特に、これから大停滞の時期がくることになれば、再分配の中央としての都会の意味はすくなくなるだろう。お金なくとも田舎だと生きていけるというのも大きいな、実際。
まだ、たぶん書き足す。...たぶん。
■書き直すまでもなく
ちゃんと書くべきことを書いてくださっている方がいた。これだからブログ界隈はやめられない。