HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

職業は人を作るのか?

人のことはひとつも言えないのだが、成功体験が勉強しかない、受験しかない人生というのはなかなか悲惨なものがある。

いうまでもなく私は共通一次世代だ。教育の場面では、常に平等で、情報がいきわたり、合理的であることが是とされていた。明るい世界が因習を打ち崩した合理性の先にあると教えられた。問いには答えがあり、まるかばつがかならずつけられるのだと教育された。ある教師は言った。「問題にはかならず答えが用意されている。問題を作る人の立場になって考えれば、答えは問題の中にある。」

一方、教育の場面以外では、「ばかになれ」と何度言われたか。言われるたびに、なんて理不尽な扱いを私は受けているのかと悲しくなった。「おまえは賢い」ということばも呪い以外のなにものでもなかった。「お前は俺達の気持ちがわからない」という言葉の裏返しであったからだ。

いつしか、こんな理屈の通らないオヤジやガキどもを、教育の中でつちかわれた私の合理性でうちのめしてやると誓っていた。だから、現代の合理性に裏打ちされた教育制度を出た人たちが主流になる時代にあこがれていた。現代の教育を受けた人たちは、どの分野にいっても合理的な判断をして、合理的な世の中を作っていくのだと信じていた。

その期待は見事に裏切られつつある。

どこの分野かは言えないが、20代、30代なのに、どう見ても団塊ジュニア世代であり、ミニ団塊世代というべき行動様式の人を見る。「お前は六十のオヤジか!」とつっこみたくなる。ものごとを進める力に乏しいのだ。生き抜く迫力がないといってもいいかもしれない。そのくせ、生き残ること、みんなが幸せになることの価値観の上で、たいして大事でもない重箱の隅をつつくようなことにだけは長けている。勉強のできるやつだけしか相手にできない。常識とはなにか、「最大多数の最大幸福とはなにか」を、自らに問うよりは、人が常識だということをそのまま飲み込んでしまう人たちのことだ。勉強しか知らないから、むやみやたらと試験制度を作って自己満足している人たちのことだ。規制を増やし、厳しく運用することだけが仕事だと思っている人たちのことだ。

彼らもすべて善意で仕事をしているのだとは感じる。善意であるからこそ、職場の期待に答えなければならない、問題には答えを用意しなければならないという信念を持っているに違いない。「職業選択の自由〜、あはは♪」というコマーシャルが私の子どもの頃にやっていた。職業を選ぶのは自分だが、職業によって形づけられる自分というものがある。不思議なものだ。

だから、最近ほんとうに頑固オヤジが好きだ。「あんた、そりゃ理屈にあわないだろう」とつっこみたくなる発言しかしないオバサンが好きだ。街を守るのは、理屈じゃない理屈をどこまで主張しつづけられる、オヤジやオバサンなのだとつくづく思う。

人生、勉強や受験じゃないなとつくづく思う、40代半ばの今日この頃。