HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

罪と業の違い

この前の「バベル」の感想の続き...

罪とは、罪を与える超越的な存在があって初めて存在する。罪とは罰が与えられるから、罪なのであり、罪を宣告するのは王であり、裁判官であり、絶対的な神であり、法である。罪を罪として認識し、罰を宣告する主体が存在しなければ罪は存在しないといえまいか?罪はあくまで現実の世界にあるのではなく、人が想像する社会の中にだけ存在するのではないだろうか?

業とは、あるがままの世界の中で、人が生きるために押したり引いたりするなか生まれる。社会ネットワークに働くさまざまゆがみがある。いわば、力のモーメント*1が常に働いている。モーメントが目には見えないように、業もただ見ていたのでは見えない*2。しかし、人が生きるときに必ずネットワーク全体にゆがみが生じる。このゆがみ=モーメントは、バタフライ効果のように、あるいは構造体にヒンジが生じ非線形の動きをするように、ちょっとした原因で解放されてしまう。それでも、あるがままの社会に業は存在する。業は想像界のものではない。

バベルの物語の中心は実は役所広司の演じた父親なわけだ。彼の業がバタフライ効果で世界を揺るがした。バベルの世界のどこにも神はいない。WASPの米国、土着的なカソリックのメキシコ、イスラムのモロッコ、日本教の日本と、それぞれの宗教の違いは描き分けられていても、どこにも父親に罪を宣告できる神はいない世界だ。

やはり、源氏物語の次はカラマーゾフかな?

*1:正確に言えば、圧縮と引っ張りなど複数の力が働いている。目に見えない力が働く例として、橋の構造体を考える。橋を支える桁や鋼材ひとつひとつは橋にかかった自重と電車などの動的な重さに対して、対抗する。目には見えなくとも、レールの下の鋼材は重さによりたわむ。このたわみはモーメントという力で定義される。モーメントはその鋼材全体に伝えられる。伝えられたゆがみ=モーメントは、接点から次の鋼材へと伝えられる。最後は当然地面にまで伝わってひとつの構造体が支えられることになる。参照 力のモーメント - Wikipedia

*2:物体に働いているモーメントをモアレを投影することで可視化することができる。正規格子というか、軸が決まればゆがみも決まるというべきか。