HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

ネット通貨の勉強会の報告と人に残された時間

昨日の「エンデの遺言」をめぐる勉強会は実に楽しかった。私がしゃべりすぎて時間がおしてしまったことはひらにお詫びしたい。それでも、ブログで書いているのと、まがりなりにも人前で話すこととは大きく意味が違うなと感じた。

最初にid:sakamataさんから、「貨幣の歴史」についてレクチャーがあった。3000年前の金属貨幣の最初の使用から、中世の初めての国債の発行、中央銀行の設立などから最近の金融恐慌まで通観できた。日本の近代の貨幣制度は実質幕末と終戦後の二度破綻しているという話は、ああそうなのかと思った。自分のプレゼンの時に、山田方谷が藩札を焼いた話をしたがやはり貨幣とは国への信頼そのものなのだ。

私のプレゼンは昨日PDFで内容をおいたし、付加すべきことはあとで触れたい。そうそう、せっかくコメントいただいていたのに「エルデシュ」を「エデルシュ」と間違えたままやってしまった。痛恨!

id:kybernetesさんの生活と製品の話も、エスノメソドロジーとうのか会話分析を製品開発やマニュアル作りに役立てるというのは、学生のころに聞いたような話であった。最終的にはある意味製品が欲望をかきたて貨幣を動かすというのはあたっている。

ごんさんのプレゼンもとてもそんな短時間に作られたとは思えない内容であった。世界共通貨幣が発行されるかどうかはわからないが、エネルギッシュなお話だった。

そして、真打さかまたさんとid:currencybuildingさんのネット信頼通貨(といっていいのだろうか?)の提案プレゼンがあった。私には非常に納得性が高かった。地域通貨というか、コミュニティー通貨というか、通貨を統一するというよりも多様性を持たせるという発想と分配の考え方が大変私にはヒットした。今後がとても楽しみになプロジェクトになりそう。手嶋屋の手嶋さんからも「よいものを作ったらOpenPNEに取り入れます」というコメントをいただけた。

フリーディスカッションでは、ももちさんからコメントをいただけたのは大きかった。グローバルとローカル、公と私の軸で分けたときに、地域通貨、ネット信頼通貨がどのように位置づけられるかという内容であった。示唆に富むお話であった。


あとで「残された時間」については追記する。

■人間に残された時間

勉強会で小ネタというか、雑談的に交わされた話題がこころに残り、考え続けている。

手嶋さんからは地域通貨の関連で地域SNSが難しいという話があった。3万組織以上がすでにOpnePNEを運営しているそうなのだが、案外発展していかないがご当地SNSらしい。地域の濃密な縁がきっかけでSNS上でも盛り上がりそうなのだが、そうでもないのだという。私もどきどきmixi自分の地域のコミュニティーを覗くのだが、大きなSNSのご当地コミュニティーは活気があるように感じる。「開きつつ閉じ、閉じつつ開く」というのだろうか、多少入れ替わりや、一般的な話題を含みながら人間関係が広がるほうがどうも活気がでるらしい。

ももちさんの地方の話というのは、なかなか厳しいものがある。非常にみにつまされてしまうのは本当。ま、それはそれとして、ももちさんはよく「交換」、「贈与」、「純粋贈与」という話をされる。「交換」と「贈与」は、そのコミュニティーというか、社会の中での行為だが、それらの経済活動の根底を支えるのは「純粋贈与」なのだとよくおっしゃる(と私は理解している)。農業では、太陽、水、大地の恵みがなければ生産できない。地域経済にあっては、国家、地方政府の助けというのがどうしても大きい。一般の経済においても、エントロピーというか、経済の数字で測れない地球規模の環境や資源が存在していることが大前提になっている。

隆盛を迎えているネットにおいてすら、Googleなどの無償でのサービスが欠かせない。しかし、それら無償性はネットの上の見かけだけであって、実は外部のスポンサーや出資者の存在があってはじめて実現されている。どうも思いつく限り、どの経済行為、お金のやりとりを考えてみても、その「外部」がなければ成立しない。例によって、閉じつつ外部に開放されていなければならない。

いま目に見える経済が不景気とか、金融危機だの言われている。現下の状況について、「エンデの遺言」を読んだ勉強会の参加者の間では、以下のような共有の理解があったように思う。

「現実に存在するすべてのものは時間がたつにつれて劣化したり、老化したり、維持のためのコストがかかるのに、お金だけはあたかも神のように価値が変わらない。価値が変わらないばかりか、この無慈悲な神は利息を生むことを強要する。」

たとえば実はほとんどの住宅よりも人間の方が寿命が長い。あまりにも繰り返し言われ、前首相のすこし意図のずれた政策の問題点となってしまったが、戦後の日本の住宅の平均寿命は20年あまりだそうだ。それでも、多くの人は幸せな家庭を夢見、将来の値上がりを期待し、住宅を建てる。いや、ほんとうにそれで家族と自分の幸せを得た人も多くいるのはこの目で見てきている。しかし、こうした個人のごくささいな夢や希望が住宅ローン債権としてまとめられ、信用創造にくみし、名前もしらない、顔もみたことがない人のファンドに組み入れられてしまう。住宅ローンファンドに組み入れられうという抽象化を経てしまうと、個人と家族の夢は、お金というファンタジーにかわってしまう。逆にいえば、お金をめぐる経済は、人の夢という外部を必要としている。

いや、私はお金は大好きだし、日々お金を追及する経済活動にいそしんでいるのだが、すべてがこのままでよいという感覚にはどうしてもなれない。

それでも、信用創造を通して貨幣が生まれる過程を考えてみると、人の時間に行き着く。借りた住宅ローンを返済したくない人はいない。なぜなら2、3ヶ月でも返済が滞れば住宅を手放さざるを得なくなったり、生活に制約が加わってしまうことをみなしっているからだ。自分の代で借金を返そうと決意してローンに加わるとき、自分の未来の時間は現在の住宅に変換しているのといっしょだ。極端に単純化してしまえば、お金は時間だ。

時間の濃さ、密度、生産性には大きな差がある。私も企業に身をおくものとして、技術革新、カイゼン活動、マネジメントによって想像もできないほど高度な経済活動へと進化する様子を見てきている。それでも、それぞれの人に与えられた時間の中での活動だ。また、人はその余命分は行き続け、経済の網の中で消費をつづけらなければならない。

つまり人に残された時間とどのような形であれ貨幣の総量はつりあわなくてはならないのではないだろうか?人の時間の量はゆるやかに変化するにもかかわらず、経済で図られる二次も三次も抽象化されてしまったお金は無限に増殖し続け、加速しつづけることを期待されている。また、人に残された時間の量に比べてお金のボラティリティーはあまりに高い。このギャップはかならずどこかで調整されなければならない。劣化する貨幣、ゆっくりとして忘却に似たインフレといった調整がなければ、どのような保証の方法や、政策をとったとしてみ必ず「調整局面」に陥る。ギャップが大きければ大きいほど、調整も大きいのは当然だ。さかまたさんによれば2005年までの5年間で世界のお金の量は倍になり、1.7京円相当に膨れたのだそうだ。大きな、大きな調整局面に直面して当然だ。

世界の人口はどこかでかならず「成長の限界」にたどり着くであろうし、昨日の議論でも触れられたように地球の利用可能な資源は十分に有限だ。このことに気付けば、ゲゼルの劣化する貨幣、あるいはケインズブレトン・ウッズで提案したという価値が減っていく世界貨幣も、地に足の着いた議論であることがわかる。実質金利と自然利子率の区別すら私にはついていないが、現実に存在する資源の状況と貨幣との現実的なつながりでいえば、貨幣はゆっくりとその価値を失う期待をすべての人がすることはごくごく「現実的」であると私は信じる。現実とファンタジーの経済の間に、閉じつつ開かれ、開かれつつ閉じた関係がどうしても必要に思われる。

当然、なんどもべき分布の話をしたのだが、現在の金融市場にひそむブラックスワン的なリスクと、人に残された時間と切り離された暗い暗いファンタジーとしかいいようのない加速し続けていく回転木馬のような市場に、すべて消費しつくされてしまうような恐怖をぬぐうことがでいない。

これも雑談の中での話しなのだが、ある人によると大体600坪くらいの土地があれば、井戸を掘り、合併浄化槽を設備し、排水を浸透させ、畑を耕し、太陽光発電をし、一家族がほぼ自給自足の生活ができるのだそうだ。世帯平均を多めにみつもって3人と仮定すると一人200坪、約600平米となる。600平米に1億2千万人をかけると7万2千平方キロとなる。これは37万平方キロといわれる我が国土の2割にあたり、耕作可能面積にほぼひとしかったと信じる。徴兵制でなく、徴農制という話もでたのだが、「晴耕雨網」というか、つながりながらも独立した経済単位として家族が市場からの影響を切り離すことでもしないかぎり、人に残された時間はますます短くなっていくばかりだろう。

■参照

「お金」崩壊 (集英社新書 437A)

「お金」崩壊 (集英社新書 437A)

*1:「貨幣の歴史」アップ希望!