HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「理系のセンスと文系の教養」という言葉を撤回したい

ずいぶん前から「理系のセンスと文系の教養」というのを教育方針であり、自分の目指すべきモットーのように置いてきた。どうもそれは大きな勘違いなのではないかと森博嗣の「心の法則」と「キシマ先生の静かな生活」を読んで気づいた。

まどろみ消去 (講談社文庫)

まどろみ消去 (講談社文庫)

まどろみ消去」に収められている短編たちはどれもどんでんがえしといか、読者に「エーッ!」と言わせたいばかりに書いてある作品である。正直、「心の法則」は最後まで読んでもわからなかった。それでも、ある種の方程式の解のような構図が最初にあり、そのために登場人物や物語が組み立てられている。これは、イーガンの作品を思い出させる。

しあわせの理由 (ハヤカワ文庫SF)

しあわせの理由 (ハヤカワ文庫SF)

特に「チェルノブイリの聖母」は最初から構図をひとつイーガンが持っていてそこへどうつなげるかという作品で、私には背景にあるべき価値感の体系が全くつかめなかった。

そう、「理系」といわれるひとたちには体系的な価値観がないのではないだろうか?文系といわれる連中には、他人への奉仕であれ、地球の環境であれ、家族の幸せであれ、どこかに強烈な価値観の方向を持っている。ちょうどイーガンの短編集のタイトル作品である「しわせの理由」のように理系的センスが徹底している人は文系人間たちが「これしかない」と思っているしあわせ感を自分のミッションに応じて調節できるようだ。体系的な価値観とは別名思い込みとも言う。探求のじゃまなのだろうか?体系的な価値を「調整」でもしなければ、非ユークリッド幾何学を超えた数学の世界へ分け入れないのか?

端的に言って、「心の法則」は理系的なひとつの構図をいかに表現するかを逆残しているので最終的な方程式を理解できなければ、全体が理解できない。登場人物たちそれぞれは、xとかyとかいった存在で文系的な意味での価値はない。

同様に「キシマ先生」は理系的な信条を徹底した人の生きざまを描いている。人間的な価値観から全く数学(あるいは工学かな?)の「しあわせの理由」にチューニングしてしまった人間が、文系人間から見ればなんと不幸せな生き方をするのだろうとしか見れない。実にイーガン的な残酷さが表現されている。

残酷な神が支配する」を書いた萩尾望都が解説を書いているのもひとつの皮肉かもしれない。

残酷な神が支配する (1) (小学館文庫)

残酷な神が支配する (1) (小学館文庫)

いや、私は高校二年生の時に理系から文系へ転んで以来理系の勉強をしていないので、数学も物理学も一般常識以上には持ち合わせていない。「理系のセンス、文系の教養」を完璧にものしている森博嗣にはなれません、はい。

社会でいっぱしになるためには、方向性が必要で、方向性のためには正しいか間違っているかではなく、自分の信じる価値の体系が必要だ。であれば、「文系のセンス、理系の教養」の方が社会で生きていくことを考えたら適応する。

いったい「まどろみ消去」をどう訳したら「Missing Under The Mistletoe」になるのか誰か教えてほしい。キスしようとしたらもういなかったってのか?うん?