HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

アブトル・ダムラル・オムニス・ノムニス・ベルエス・ホリマク、米国とともに来たり、米国とともに滅びよ!

昨日つくづく横田空路の図を見ながら、日本はいまだに被占領国なんだな、属国なんだなとつくづく思った。

北は新潟の手前まで、西は焼津の手前、伊豆半島の北側いっぱい、肝心の東は羽田のぎりぎりまで、ということは首都の上空の西半分までを、他国の軍事基地の航空管制に置かれている国は他にあるのだろうか?太平洋戦争の戦史をひもとけば制空権を握った方が戦闘で勝つ。大艦巨砲主義で思考停止しているうちに、飛行機の重要さが戦争指導思想の中から抜け落ちていってしまった。

実は、このブログのタイトルである「機密日誌」とは、児島襄さんの「太平洋戦争」に出てくる、「陸軍・機密戦争日誌」からとった。

私は別に戦争を指導するとか、国をどうのといえるうようなえらそうな立場にいるわけではない。ただ、いまだに戦争を続いているんだという感覚はあり、「日誌」として自分のみたものを次代の子どもたちへ伝えたいと思った。

今更無責任のそしりをうけることになるかもしれないが、前回の記事でかいた「子どもを産む」ということは、実は比喩だととっていただきたい、と今感じている。そして、ひとつだけ告白しておく。「攻殻機動隊」と「負け犬の遠吠え」を書いてはじめてなぜ自分が子をなすことに深い意味を感じていたかを初めて理解した。

ぼくたちは本当に負け犬なのか?: HPO:個人的な意見 ココログ版

戦争においてあまりに多くの日本人が死んでいった。無意味な死であったと言ってしまうことは簡単だ。国にだまされたのだと。歴史を学べば学ぶほど、死の意義を見失ってしまうのだろう。

なんといか、口承歴史というのだろうか、祖母から、父から、伝えられた歴史は教科書で学ぶ歴史とは違うように感じてきた。戦い続けて、次の世代のために守るべきもの、残すべきもののために、戦った人たちがいたことを直接、間接に感じた。私たちがいま思うより、当時の人は冷めていたとも聞く。やはり、この戦争は負けるのだろうなと、感じていたと父は話した。祖母は、「ロシアだけは信じるな」と何度も言っていた。

いや、この辺はあちこちに書き散らしているので、これ以上書かない。

私と同じ年の成田空港が日本が被占領国であることのまぎれもない象徴であるということにいままで気づかなかった自分の愚かさを悔いる。三里塚闘争や、成田駅での機動隊との衝突などは、当時の学生が米国の支配から脱却を望んだ末の行動であったのだと今更ながらに思う。

しかし、当時なんらかの形でこの運動にかかわった世代の連中が逆にいまは日本の航空政策のあしを引っ張り、硬直化させ、逆に米国の極東における軍事政策の変更により右往左往させられている現在の状況とはまことに皮肉の限りではないだろうか?

米国の属国であるかぎり米国の崩壊とともにいまの日本も滅びる。ほろびたくないのであれば、目先の政策だけではなく日本の根本のあり方までさかのぼってどれだけの犠牲を払おうと、独立の国として存立すべきだ。