HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「もったいないからおもいやりへ」 複雑系の倫理学試論 第三稿

タイトルの「もったいないからおもいやりへ」は、某雑誌で小泉首相が語った言葉だ。

ブログを始める前から、現代の社会の混沌の中にも倫理的価値、倫理的構造体が見出せるであろうというぼんやりとした考えがあった。

この言葉を読んで、なんとはなしにこの「ぼんやりとした考え」に形が与えられそうな気がしてきている。自分自身が誤解をしていたので、「複雑系」という言葉が嫌いなのだが、複雑系倫理学と呼ぶべき分野が今後「創発」しうると信じる。

ブログをはじめて、いろいろな方から刺激を受け、経済物理学からべき乘分布的に富が分布するという原則、経済学から共有地の悲劇という考え方、非線型非平衡系の物理学から熱力学におけるカオスやフラクタルといった現象の記述の仕方、IT技術の進歩によるマルチエージェントシミュレーションから推察される知見など、少しずつ理解が進んできた。ぼんやりしているから「ぼんやりとした考え」なのだが、これらの知見のうちになにか糸口がつかめそうな内圧が高まって来ている。

自分でも意外だが、「複雑系倫理学」に形を与える作業を上野千鶴子さんから始めたい。

「セクシィ・ギャルの大研究」という本は、上野千鶴子流のヒトのセクシュアリティーを広告の中で記号としてとらえるという優れた研究だと思う。このセクシュアリティーという記号は、ヒトにおいてかなり根源的なものであり、記号というひとつの単位を形成しているのだと私は理解した。

セクシュアリティーが記号であるとすると、ヒトが群れを作り、曲がりなりにも社会という集団を形成した時から、多分「俺のものは俺のもの」と主張する対象が明確になり、私有概念につながったのだと私は考える。セクシュアリティーが記号であり、単位としてとらえられるがゆえに、ヒト最初の「取引」が生じたのだと思う。それは、現在棲息するサルの群れを観察すればわかるように元来オス一匹に多数のメスと子どもという血族集団であったヒトが、血族から脱却した瞬間のような気もする。つまり、複数の血族からなる大きな集団が生まれた時から、はじめてセクシュアリティーという記号の交換が可能となり、私有という概念が生まれ、交換、取引がはじまったのではないだろうか?ヒトは言葉を持つがゆえに、私有された財産を交換することが可能となったのではないか。

[書評]セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方 (HPO)

かくして、血族集団からより大きな社会集団へ「進化」をとげ、その構成員の間でのセクシュアリティーや生産物の取引が生まれると、より一般化された言葉が生まれ、言葉の延長に貨幣が生成し、「商人」が必要になり、べき乘分布的に「資産」が蓄積され、いつか貨幣も資産の価値も消滅しうる。セクシュアリティーはともかく、ヒトの取引の進化を安冨歩さんはコンピュータシミュレーションと深い洞察を通じて見事に示されたのだと思う。非線型科学、非平衡系の科学が単純なニュートン力学から、時間の非可逆性や秩序の生成を引き出してきたように、「人は人が欲しがるものを欲しがる」といった万有引力の法則といっていいほどごく単純な仮定から取引の発生、貨幣の生成と消滅、商人の必要性、べき乗分布的な富の蓄積といった現象をシミュレーションで示した功績は大きいと私は信じる。こうした経済活動というのは、本質的に複雑系のネットワークなのだ。

[書評]貨幣の複雑性 (HPO)

貨幣が生成し、消滅するように、経済ネットワークの参加者一人一人の共通の基盤である経済学でいうところの「共有地」(コモンズ)の利用における「ぬけがけ」は経済ネットワークそのもの崩壊につながる。経済学の「共有地の悲劇」という考え方は、経済ネットワークの参加者個々の資産の蓄積を最大化しようとする動きが、神の見えざる手による合理的な市場の秩序の形成ではなく、価値の生成と消費のホップが見えずらくなるため身勝手な利用者である「フリーライダー」を多く産み、生成された経済ネットワークそのものを破壊しかねないということ示しているのだと私は理解している。「共有地の悲劇」といっても、時代ごとに経済ネットワークの基盤=「共有地」は変化する。この歴史的な事実を巨視的に眺めると公文先生のS字カーブという観察につながるのではないだろうか?

Bloggerにも「共有地の悲劇」 by 山口浩さん

[書評]情報社会学序説 (HPO)

生態学の分野では、種の中の個体の数が増えれば、資源が足りなくなり、成長が鈍化し、その種そのものの消滅につながるという考察は早い時期から行われてきた。カオスの発見につながったともいう単純な式、ロジスティック式は、世代毎の個体数を計算するために作られた。しかし、ヒトだけがこのS字カーブの呪縛から逃れられるという保証はない。どちらかといえば、ネットワークに関する研究が示すように、複雑なネットワークを形成し、巨大なハブが形成された状態でも、攻撃あるいは自滅するノードの部位によっては、ネットワークが簡単にばらばらになる。「自己組織化臨界現象」というのが知られているが、ヒトのネットワークがいつ集団知性といよりも集団にカオス的な動き方をする可能性は常に存在する。

ロジスティック式 @ wikipedia

歴史の方程式―科学は大事件を予知できるか by 橋本大也さん

経済と技術の進歩をいかに巨視的に見うるかは難しい問題だ。

「維持するためには改革せよ」というバークの言葉ではないが、技術が発展しつづけ、経済ネットワークが常に成長しつづけるということは、現代の経済体制の中にすでに組み込まれているために、必須である。成長とその制御を通してネットワークはダイナミックな安定をうる。

インフレーションの形 (HPO)

しかし、一方で常に技術が発展しつづけ、経済ネットワークの形が変化しつづける社会において、なにが参加者全体の利益につながり、なにが破滅につながるかが、非常にわかりづらくなっている。分かりえるのは、せいぜい自分の得か損か、快感か不快かだというレベルにすぎない。新しい技術、新しい商品、新しい情報を自分のごく当たり前の生活に取り込む前に、次の世代の技術、商品、情報が生まれてきているような気がするのは私だけだろうか?まして、技術革新による高齢化が進む中、ますます世代交代のスピードは遅くなっている。高齢化が進めば進むほど、新しい技術、商品、情報への感性は鈍るのは避けることが出来ないヒトの特性だ。

まして、まして、技術の進歩は、その参加者であるヒトを甘やかす。技術の本質への理解がなくとも、技術を利用することが可能になる。フクヤマ=ヘーゲルのいう「オメガマン」(最後の人間)の到来だ。

米兵は「最後の人間」か? (HPO)

ここに政治的なかけひきにより国単位、地域単位での「共有地」の争奪戦が絡んでくるとことは複雑な上にも、複雑さをましていく。そして、カオスともいうべき線形な思考しかできなヒトの予測を超えた臨界雪崩を起こしながら、変動の大きな社会の到来を迎える。

それでも、肝心なのは、個々の経済ネットワークの参加者が、ネットワーク全体の利益、「共有地」の価値、全体の維持、への感性を高めることだ。えらく長い記事になりつつあるが、ここの感性を「思いやり」といってしまっていいのだはないかと、標記の言葉に接した感じた。

思いやり=共有地の悲劇を回避する社会の成員の感性

つまりには、↑の定式化を基盤として組み込んだ経済ネットワークモデルができないものだろうか?

一番やさしいのは経済価値の生産と消費の「距離」を縮めるために経済ネットワークをもう一度コミュニティー単位にに分解してやることだ。なんらかのバリアーをつくり、分割することができれば、共有地への価値観の共有、身勝手な利用のお互いの監視が可能になる。地域通貨というのもこうした試みの一つだと思う。しかし、情報技術も国のインフラストラクチャーの基盤整備も進む中ではコミュニティー単位の経済ネットワークへの回帰は絵空ごとにすぎない。

複雑さを乗り越えた「共有地」への感性、カオス的には違いないのだが全体としての秩序を生成しうるフラクタル的な社会構造の生成、ゆるやかな社会構造の変化の実現、といったものを想像するときに、ヒトの個体の死への感性を私は発見する。

ヒトの個体の死において究極の「もったいなさ」を感じる。

ほんの少し前のコミュニティーの中では、生と死は身近なものであったのだ。生も死も遠ざけてしまい、意識の内から出してしまえば、やはり停滞、腐敗につながる。いまのコミュニティーに生と死は組み込まれているのだろうか?感性が存続しているのであろうか?生と死の感覚ともったいない、思いやり、「共有地」といった感覚は案外近いところにあるのだろう。

まだまだ未完成だることは自覚しながら、一旦記事としてあげる。またいつか再度トライしてみたい。

この稿、多分夕方までにアップします。06/01/24