HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「もったいないからおもいやりへ」

タイトルは、某雑誌で小泉首相が語った言葉。

先日から、べき乘分布的に富が分布するということ、共有地の悲劇、エージェントモデルシミュレーションなどをごちゃごちゃと考えるといわゆる倫理的行動がひきだせるのではないかと考えて来た。

なんというか、多分ほっておいてもその対象とする集団内の生産物の取り引きが生まれ、社会的、私的資産が発生する。取り引きが発生すること、貨幣が生成すること、「商人」が必要になること、「資産」が蓄積されること、多分、そしてべき乘則的にその資産と「商人」が分布することを、「貨幣の生成と消滅」は示したのだと思う。これを経済ネットワークと言っていいと思う。

http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2005/07/ecology_of_blog_0119.html

そして、経済学の「共有地の悲劇」という考え方は、個々の資産の蓄積を最大化しようとする動きが、こうして生成された経済ネットワークそのものを破壊しかねない。

問題なのは、個々のエージェントが全体の利益、「共有地」の価値、経済ネットワーク全体の維持という価値、を高めることにどれだけ感性をもっていられるかということだ。ここの感性を「思いやり」といってしまっていいのだはないかと、標記の言葉に接した感じた。

思いやり=共有地の悲劇を回避するエージェントの感性

という定式化を組み込んだ経済ネットワークモデルを作れないものだろうか?

ここで問題は、↓の随筆群が語るような前近代の時代においては比較的社会全体の善、社会全体の資産というものが見えやすかったのだと思う。現代においては、技術革新による全体の資産価値の向上が不回避でありながらも、技術革新が究めて全体の善、全体の共有地への貢献というものを見えにくくしてしまう。なぜなら、新しい技術、新しい商品群を取り込んだ生活環境、生活習慣のレベルまで感性を具体化しなければならないのに、技術革新は生活まで降りて来るまえに次代の技術が実用化されてしまうからだ。

http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2005/05/post_2aa1.html

社会は、技術革新によっってのみ正常なインフレーションを生むのだと考えている。流通経路の効率化、個々人の生産性の増大も、究極的には技術革新である。

しかも、広い範囲で技術の理解が広がることにより生活レベルでの技術は定着するのであろうに、技術は高齢化を支持することによって世代交替のスピードを遅くし、生活レベルの向上により逆に「オメガマン」(最後の人間)となり技術の革新に理解をしない人間が増えて来る。

http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2004/05/post_3.html

では、どうすべきかということになるわけだが、一番やさしいのは「分散し、征服せよ*1」と言う方法だろう。

大前研一さんの「平成維新」を読んでいてあらためて感じるのは、日本を10あまりの経済ブロックに分割するだけでなく、そのブロックの間に「境界」を作ってやることが実は肝要なことであったわけだし、当時から指摘されていたように肥大化を続けて今回の北海道の人員削減に繋がるような自力で立ち上がれなくなるところまで来る状況の改善が主眼であったわけだ。大前さん自身が指摘してきたように、「グローバリゼーション」には「境界」がない。どこまで経済として繋いで行こうとするのだが身上である。実は、ヒト、モノ、カネの移動を分割された日本のブロック毎に統制するのでなければ、実は肥大化はともらないのではないか。

「境界」の内にある資産の総量で、「山」の高さ、資産格差等は決まって来るのだろう。分割されたブロック毎でほぼ同じ高さの「山」であれば、自然と競争の原理は行われうる。

非常に素人な議論であると自覚しながらも、経済運営を考えるときに生態系として、植物、草食動物、肉食動物といった食物連鎖として、ネットワークとして考えることがとても重要ではないだろうか。

あ、それからなによりも、分割した経済体の中では、なによりも「共有地」が見えやすくなるだろう。フリーライダーをいかに減らすか、ブロック毎の経済生産性をいかに高めるか、がより見えやすくなるはずだ。

ああ、それにしても高齢化よりも少子化を憂え、高齢化対策よりも少子化対策少子化した子どもたちの生産性をいかに高めるかという教育をもっともっと重要視すべきなのだとこれまた思う。

この稿、また手を入れます。