私は幸せなSF読みであったと想う。最近でこそリアルの必要に駆られて読む本ばかりになっているが、本来の私はリアルから切り離された世界にたゆたうのが好きな内気な少年であったのだ。
ま、私のSFへの愛は別のところで語るとして、偶有性ではないが、いまここにあるリアルの姿は一度きりのものでしかないわけだが、いまでないここでないこの姿でないリアルを想定しうるように人の頭はなぜだかできている。ここにおいて超越性への志向というか、信仰心というか、「そうじゃないんだ!」と天を仰いで嘆息するという行為につながる。
つまり、ここでないいまでないリアルをオルターナティブなリアルをSFが表現することによて、逆にいまここにあるリアルへの理解を深めることは十分に可能であるし、超越性を示すことは必要ですらあるのだろう。これは、アイロニーやユーモアの本質的な意義ですらあるかもしれない。笑いとは、いまでないここでないかもしれないリアルの裂け目を飛び越す行為であるのだ。
ま、その谷が深いか浅いか、広いか狭いか、対岸が高いか低いかの差はあるのだが。