HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

余に与えられし時と場所はいずこにありや?

via: はてな

偶有性というのがわからない。it1127さんに教えてもらった本はとりあえず発注済。ももちさんはなんかいってるんだろうが、ブログやってなさげ。なんか書いて欲しいな、せっかくこういうジレンマに私を間接的に陥らせているわけだから。

ま、そんな繰り言はともかく。。。

アフォーダンスが共進化であるという妄想を深めているわけだが、この先にあるのは、ハエを例に出したように、私にあるのはあくまで私という人間から見た世界でしかない。いや、世界と言うよりも自分自身だと言った方がより正解かもしれない。立ってようが、寝てようが、喋ってようが、見てようが、いまの私にあり感じられるのは、私自身であるわけだから。この私が他のだれかでありうるという可能性を私には考えることすらできないでいる。この違和感をもっときちんと言葉にしたいのだが、うまくでてこない。

私が私であるという認識も、私が生きていると私が実感できる現実も、いま私が私を感じているあるがまま以外にはありえない。もし、ありえると考えた途端に私というリアリティーは崩壊してしまうだろう。

私という認識が、ある種のカオス、ある種の非線型を含むことは私自身の認識自体がいくつかのレベルにおいて存在している限り避けようのないことであると思う。

非線型である前「意識」が、意識という線形、論理性を構成してしまい、またこの「意識」体が複数相互作用することによって、非線型、カオスという線形の意識では予測不可能な状態が生成されるという、一見パラドックスな状態こそが、私は生物としての宿命であり、運命であり、意識の意識たるゆえんだと信じる。嗚呼、そう、私はここにおいて信じるとい言葉しか見つからないでいる。

ああ、なぜこの肌一枚で覆われた中身を私は私と認識するのであろうか?なぜ、肌一枚をはいでしまったら生きていくことすらできない、あとは腐るばかりの、身体を私は私だと信じて利害を求めるのか、自分が自分だと断言できるのか?

いかん、言葉であそび始めている。一旦、退却!

「自己をならふといふは、自己をわするるなり」