HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

アフォーダンスとデザイン

it1127さんにつっこまれてうろたえています(笑)。

そこで、担ぎ出したいのが、これ。

建築馬鹿 第1集 どろぬま建築論

建築馬鹿 第1集 どろぬま建築論

これは「建築知識」という雑誌に昔々、私がまだ幼稚園に通っているころ、掲載された記事を集めて本にしたということですが、建築業界にいるものとして真摯な問いかけが随所に見られ、とても勉強になります。

で、いま問題にしたいのは「うそをつく技術」、「装飾の意味と巾」という章です。

犬の目玉の底にある網膜は外界の全てを移すが、焦点がない[hihi01注:確認中]。だから犬の意識には外界の映像が映写幕のようにうつる。犬はすべてをみているのだ。人の目は、非常に狭い焦点と広い視野から成り立っている[hihi01注:ほんと]。ここから人生を語ることができると、私は予測している。

ものを見るという動作のなかに、すでに理解しようという「創造的」な志向が含まれている。予定と期待がある。そして、その予定と期待との確認のためにひらかれた目は、予定され期待されているショックを受け止める構えができている。「創造的」な志向、といったのは、この心の構えである。

私達は装飾に自信がない。この時代はすでにながい。この時代とは、近代以後である。それ以前、縄文、弥生、奈良、平安、鎌倉、室町、桃山、江戸、日本の文化史のどの時点をとらえても私達のまぶたに浮かぶのは美しく、豊かで、稚なくとも冗舌であり楽しい装飾の姿だ。原始未開民族は顔や体に装飾を彫り、盾どころか槍の先までたんねんに彫刻をしていた。人類の歴史のあらゆる場面をふりかえってみるにつけ、近代と現代だけが装飾への自信を喪失した奇妙な時代に映る。

だからといって、原始に戻れというのが本論の主旨ではなく、逆に自信をなくし、混乱している時代だからこそ、真実のデザインというものが存在し得、それを求めて建築デザイナーは日々努力しているという論調につながっていきます。

アフォーダンスという言葉の射程距離を延長しすぎているかもしれませんが、上野千鶴子が記号としてさまざまなセクシュアリティーの普遍さを現代のコマーシャル映像などのなかに示したように、建築あるいは商業デザインにおいても、普遍的な記号を内包したデザインは存在しうるであろいうというのが、私が日常の仕事の中で感じるところです。

知覚論からちと道を来すぎているかもしれませんが、そんな感じです。

なんとか今日中に「生態学的視覚論」をまとめて、HPOの方にあげたいと思っています。できれば、そちらで議論しませんか? > it1127さん、fuku33さん