HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

平成27年2月10日追記

ドラッカーフクヤマも、ヘーゲルをひとつの立ち位置に使っているのはきっと事実だろう。ただ、ドラッカーはかなり直観的に、フクヤマはかなり論理構築的にという違いがある。天才肌の人と秀才肌の違いなのかもしれない。たぶん、2つの「終わり」を出版したときの2人の著者の年齢は同じくらいではなかっただろうか?

ドラッカーの本書における主な主張を要約したい。ヨーロッパの500年の歴史において宗教も、科学も、資本主義も、そして、共産主義も人を救えなかった。人々が欲しがるのは安定であるにもかかわらず、技術開発も、経済市場も、経済政策も、そして、社会改革も、逆に社会の不安定さを極大化する方向に運動している。そして、現在は「経済的合理性」、自由主義に一縷の希望を見いだしている時代と居続ける。しかし、誰も現在の「経済人」の後に来るべき世界を描けずにいる。この不安と絶望の中で、ナチスヒットラーは、全てを拒否する、全てを間違っていると主張する。人々が否定と拒否しか産まないナチスに、希望を見出していることがあまりにも危険であると。そして、人々の失望から生まれたナチスヒットラーは、第二次世界大戦への道へと向かっていく。

「経済人」の終わり―全体主義はなぜ生まれたか

「経済人」の終わり―全体主義はなぜ生まれたか

ドラッカーは、全体主義を否定に見た。全体主義は論理的、イデオロギー的、教義的な要素が排除されているドラッカーは分析する。この失望の果ての非合理的な希望を、「我々は、パンの値段を下げろといっているのでもなく、上げろといっているのでもない。ナチスが決めるパンの値段がほしいのだ。」とゲッペルスのものと思われる言葉を引用し、端的に表している。

これらの主張に対して、フクヤマは、「歴史の終わり」を主張してみせた。歴史的の分析から、イデオロギー、教義としての共産主義と資本主義=自由主義の対立という「歴史」が終わると主張する。人類は、長い歴史を経ても究極的には「自分たちが自分たちの主人」であるという政体=民主主義以外に安定を見出すことが出来ないとフクヤマは言っている。そして、成功した民主主義が必然的に生み出す安定性のゆえに「最後の人間」=気概なき・精神性の低い人々、ばかりになってしまうと。そして、気概なき人間たちだけで組織される国家は、力がなくなり新たな不安定を生むのだと。このような主張であったと、私は記憶している。

いずれも、社会の安定というのは見出しがたい。世界はますますネットワークの緊密のレベルがあがり、パワーゲームという新たなエッジが生み出されていく。ネットワーク、エッジの緊密化は政府の力をより強くする。文字通りゆりかごから墓場まで政府が面倒をみるのが当然となる。こうした世界の中では、ますます世界の動きの「非線形性」が強調されるであろう。

ドラッカーの正確な言葉をいま引用することは出来ないが、「未来の人々は、経済構造を分析することによって安定した社会を作ろうとした我々の活動を、なんと不可能なことに挑戦したいたのかと、笑うのかもしれない」という趣旨の主張を本書の中で行っていた。

ドラッカーは、人間、経済、政治、社会体制のもつエコロジー的ともいえる非線形性に気づいていた人なのではないだろうか?そして、自分で自分を飲み込んでしまうウロボロスとしての経済市場にもだ。