HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

資本主義のメカニズムをネットワークでよむ

資本主義がなぜより人にとって自然でありうるのかをネットワーク思考から検証する。

  • 人は人が欲求するものを欲求する

そして、貨幣とは誰もが欲求するものだ。あるいは、誰もが欲求すると誰もが認識しているために、貨幣は交換価値を持ちうる。

  • 貨幣の生成と消滅:

企業とは結局どのような商品を扱うかで決まる。この意味で、「貨幣の複雑性―生成と崩壊の理論」のしみレーションで示されているように、「貨幣」と呼べるほどの人々から欲しがられる「ヒット」商品があったとすれば、それはかならず消滅する。商品の集合体としての企業もひとつの商品だと考えうるのではないだろうか?とすれば、必ず消滅する。1/fみたいな、時間の長さを長く取れば長くなるほど大きな波が到来するのだとすれば、この意味でも企業の命は有限だといっていい。

いくつかの論文に見られるように、生物の本質とは「産まれ、生き、そして死ぬ」ことだ。その間にどれだけ自分の「遺伝子」をばら撒けるか、もう少し品よくいえば「子をなせるか」なのだ。この意味で、当初から「倒産」、「清算」などの形で企業の消滅ということを前提としている資本主義はよりよい意味で「自然」足りうる。

共産主義の考え方自体を否定するわけではないが、絶対につぶれないことを前提とする「共産主義独裁」を唱えるイデオロギーには非常に不自然なものを感じる。

  • 企業のべき乗分布

多くの進化、絶滅を数理生物学的なモデルで近似するとき、あるいは化石生物の歴史をたどるとき必ずべき乗分布が出てくる。私はこれは、「餌場の取り合い」の結果であり、かつべき乗分布する生物種の多様性などが種として、いや生命全体として存続していくのにとても大事な形であるからだと感じる。

この意味で、前述の企業の生成と消滅ともかかわるが、企業規模の分布というものがべき乗分布であることは非常に興味深い。これはまた、何ホップかで企業全体がつながっているということと表裏一体の事実であるようにも感じる。

いずれにせよ、超大規模な企業が没落すれば、その占めていた生態学的な地位を必ず継承する企業が現れるであろうし、あるいは小企業が突然変異を起こし大企業になることもあるだろう。あるいは、集中が進み超大企業ばかりになれば、かならず餌場、市場の形に合わせて細胞分裂、なんらかの分社化、分権化が進むであろう。そして、それらは新たに超大企業グループのなかでの生態学的な地位争いを起こすことになる。そして、また改な形でのべき乗分布を生むのではないか。

どうも神の見えざる手というのは、存在しないようだ。情報が高速に集積し、検索可能な形になればなるほど、為替市場に参加者が多くなればなるほどボラティリティー、不安定さが増していくのは、なんたる逆説だろう。非可逆的な、非線形的なカオスがますます予測不可能な相互作用を起こしていく。

しかし、前述の企業の入れ替わりを資本主義では前提としているために、市場、商品の見えざる手ではなく、企業の分布、餌場の取り合いにおいて、見えざる手が働いているような気がしてならない。

企業活動をランダムウォーク的にとらえてもいい。企業の活動をカタストロフィー理論というのだろうか、エントロピーの谷間もでるのような形でとらえれば、またもべき乗につながる。

それは、きっとどこかの閾値を経て、より大きなエントロピーの谷間に落ち込むような仕組みで生成された経済的なルールに違いないと私はおもう。そいて、多分エントロピー的の山と谷という形を持つ閾値モデルは、「複雑ネットワークの科学」において増田先生が指摘さていたようにまたしてもべき乗分布を生むに違いない。

  • 「貨幣の複雑性」ふたたび

こう考えてみると、「貨幣の複雑性」で安冨歩さんが指摘されていたポイントは、商品であり、貨幣であり、為替であり、信頼関係であり、媒介者としての商人であり、そして企業あるいは社会体制そのものの生物「種」への暗喩ともいえる生成と消滅、進化の問題であるわけだ。これは、資本主義の要素を実は網羅しているといえるのではないだろうか?

  • 人工物と自然物

この間の区別をつける必要があるのか?

ナウシカ墓所王蟲の血が同じ青だったというのは示唆するところがある。人工的に作られたものであっても、ネットワーク、相互作用、生態系となったときにはその創造者の意思を離れた、予想外の結果が生まれる。経済体制、ウェブのつながり、貨幣などもその一例ではないだろうか?


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