HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

希望格差社会(山田昌弘) @ 極東ブログ を読んで

まだ、本棚につんだままだ。ぜんぜん読んでない。従って、この記事は極東ブログの記事を読んでの感想文にしかすぎない。

finalventさんがおっしゃるように、問題はいまの日本の社会において階級が固定化されつつあるのか、どうかということだということはわかる。リスク社会だなんて、いつの時代だってあたりまえのことだ。どんなに安定しているように想える企業体だって存続していくことは、ほんとうに難しい。そう、たとえば鎌倉の通りぞいのお店で何代前から存続しているか、累代の経営者か、聞いてみればいい。

資産も、地位も、決して代を越えて継承していくものではない。もともと社会というのはものすごく変動するものだ。江戸時代だって、出世していくやつもいれば、家系図をうりはらうやつだっている。親父が言っていたが、エノキアン協会という200年以上継続している経営者たちの会なんで、日本で2社しか入っていないそうだ。

要はどれくらいの時間のスパン、長さでこの世をとらえるかということだと信じる。いまの自分だけなのか、子どものことを考えるのか、3代先まで考えるのか、その差だけだ。ちなみに自分の子たちだけで繁殖することはできないから、代を重ねようとすればするほど、広い範囲のことを考えていかなければならないということになる。ここが問題だ。時代錯誤といわれるかもしれないが、繁殖の対象としての人材のプールの最大単位として「国」というものがあるような気がしてならない。

いずれにせよ、社会で階級を際立たせながら、それを固定化しようとする試みは長くは続かない。せいぜい1世紀、3代くらいだろう。

あ、どれだけ傲慢に聞こえてもいい。私は明日のたれじんでもかまわない。ただ、明日死ぬときまで家族のことを、自分の商売のことを、そして国の未来を考えつづける。