HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

敗戦を抱きしめて

「敗戦を抱きしめて」 by ジョン・ダワー

太平洋戦争後、米軍占領下の日本についての数少ない歴史研究であると思う。米国人であるにもかかわらず、米軍側の資料よりも日本側の資料を主に使っているというのが稀有であろう。

「序文」を読んで、著者が戦後の日本の全体を書こうとしたこと、第二次世界大戦の歴史を先に書いてから本書に望んだことなど、大変感銘をうけた。特に「全部」といことは、一般庶民の生活から経済、憲法の制定などにいたるすべてだとページを割いて特記していた。

せっかくゆびとまさんに紹介いただいた本をどう書いたらいいのか悩んでしまうのだが、タイトルの「敗戦を抱きしめて」からして左翼系の立場に著者がたっていることが暗示されている。逆に「終戦」なのだと主張すると、おまえは右翼かといわれてしまう今日の時流からいっても、タイトルだけでなく内容についてはもっと著者の立場が明確に表れている。

マッカーサー元帥と天皇のやりとり、あるいは戦後のメーデーのプラカードから、天皇が戦争責任をあきらかにすべきであったという主張が随所にみられる。左翼系の学者などがこの本をさらに引用して、「英米の学者でもこういう主張をしている」と言い始めるのではないかと思うとどうにも気が重くなる。

ちなみに、このような議論をするときにでは、おまえの立場はどうなのだといわれるのが常だと思うのであらかじめ書いておく。以前、憲法とのからみで書いて自分自身の頭の編集を行ったのだが、基本的に民衆の支持があるかぎり憲法に定められた国の統一の象徴としての天皇がいるべきであろうと考えている。逆にいえば、手続き等が決まっていないにせよ、憲法の改正が行われ、国民の3分の2以上が天皇制に変更を加えるべきだということであれば、それはやむを得ないのだろうと感じている。

さて、そこで著者の主張にもどれば、随所に「〜べきであった。」という形式の言説にであう。

そういえば下巻のおびの「日本の非軍事化と民主化はなぜ挫折したのか?」というキャッチだが、戦後「挫折」したのは社会党共産党系の人々であって、ほかのほとんどの国民は経済的な成長と、民主主義的な(というかデモクラティックな)自由を享受し、軍役の恐怖におびえることもなかった。いったい、日本がいつ挫折したのだろうか?現在の閉塞感が、戦後に天皇を断罪して、共産党が政権を奪取していたら、なかったとでもいうのだろうか?

私は歴史を見つめる目は、まず虚心坦懐に自分の主義主張をはなれているべきであろうと感じる。その上で、腑に落ちてくる事実を大事にすべきであろう。決して、偏ったインフォーマント(情報提供者)に頼っていては、自分の主張も偏ったものになる。

ああ、もっといってしまえば人の幸せの役に立たない「かくあるべきであった」という議論には一切与したくない。いったい誰が、この戦後の敗戦の中で現実に起こったこと以上のことが実行可能であったのであろうか?共産党ならもっと人を幸せにできたのか?天皇をあの当時に断罪し、政治的な混乱を招き、人々の精神的な支柱と誇りを失わせることをしていたら、いまの日本がありえたであるか?ひとつまちがえば、比較の対象とすること自体にためらいをおぼえるが、強力な指導者もいない、精神的な支柱も失って混乱する現在のイラクの状態に、日本が陥らなかったとは誰もいえないだろう。

実はそもそもこの本を読もうと思ったのは、以前書いた「負け犬のとおぼえ」という記事で現在の日本の敗北主義について論じていたので、そのルーツがどの辺にあるのかを知りたいと思ったからだ。いくつかの解答は見つかったように思う。