HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

あなたがあなたであるためには

■2つの出会い、1つの与信

今電車の中でこの記事を書いている。少々お題を考えながら、さっき電車をまっていたのだが、となりから声をかけられた。「お父さんにお世話になっています。」自分の住む街中の方だった。こういう偶然のような出会いをするのが好きだ。なんだかんだいっても、自分が地域の社会の一員だったのだな、と自分を認識できるからだ。

昨晩の深夜にあったのは、ネットの上での偶然の出会い。約束があるので、詳しく書けないが、昨晩、もうネットを切って帰ろうとしたときに、ほんのちょっとしたいたずらごころで検索したら、自分の鏡があらわれた。「攻殻機動隊2」での鏡の罠のような、ネットで派生した自分の分身とであったような、不思議な出会いだった。

昨日、もうひとつうれしいことがあった。はてなの日記を書いて満願日、とうとうキーワードを書く資格があたえられた。もらって、始めてきたついたのだが、あの整然としたキーワード辞書は、30日間日記を書き続けた人なら誰でも編集できる。ある意味、よほどキーワード辞書を書く方に意識がないと、あれだけ適切な辞書をメンテナンスすることはできないだろう。Wikipediaの方はよく知らないが、ほぼ似た状況だろうと推測する。

■ネットの上での信頼性

いま、ネットの上での信頼性というのが問われているように感じる。ある意味、匿名性の世界なので、地域社会にいたときとは、発言の内容もかわってくるだろう、いかがわしい情報もまかりとおるだろう。Yahooのけさがたの記事も、悪意の記事がふえているといことだった。ネットの記事、ネットの発言、ネットの知り合いが、信じられるのか、頼れるのか、ということだろう。

また、信頼ということの根本には、信頼するかどうか、私が判断するその人がその人であるかどうかという認証の問題がある。ネットの上で自分がだれそれだ、というとき、それを技術的な方法で証明する手段はいくつかあるようだ。指紋もある、網膜パターンもある、パスワードもある。しかし、究極的には、自分が自分であることは、実は人間と人間の関係においてしか証明できないのではないだろうか?

そんなに難しくしなくとも、リアルで認証できればそれでいい、というかもしれない。これはこれで最近別な経験をした。会社で残業していて、私一人のときに、4回続けて同じ方からと思われるいたずら電話があった。そのたびに、違う担当者の名前をいわれた。ネットだけでなくスパムというのは、あるのだなと思った。リアルにおける。この話は適当かどうか、いまわからないが、電話でも、「おれおれ」さぎのようにその人がその人であることを証明できない、ということは経験的に正しいと感じる。あるいは、もっと手のこんだ偽証詐欺の例は「白昼の死角」を一読されることを進める。

もっといえば、地域社会において、自分がどこのだれべえだ、というとき、それはせいぜい隣近所で、そう名乗っていて、そう周りの人間が認知しているから、というのをでない。そして、その周りの人間はまたそれぞれがそのまた周りの人間によって認知されているという。それが、なによりも当人が当人である、私が私であるという証明にほかならない。それは、辞書の言葉の定義のどうどうめぐりだというかもしれない。「ほくぽす」と引いたら「ぱすみす」が出てきて、「ぱすみす」を引くと「ほくぽす」が出て来るみたいな、どうどうめぐり(以上、私のどさくさまぎれの造語)。

決して、私が私であることを証明するのに、十分な方法とは言えないが、この意味でソーシャルネットワーキングはおもしろい試みだと思う。友達の友達、そのまた友達と、すすんでいくと必ずどこかでどうどうめぐりに達する。実は、自分が鏡と呼ぶ存在にであったのも、グリーをいろいろ試していたときだ。

■「あなたはだぁれ?」

なんか昨日it1127さんへのコメントを書いてからSF作品に関する連想が止まらなくなっているのだが、押井守監督の「天使のたまご」というのがあった。たまごをだきながら、孤独に生きている少女と出会う少年。少年に少女は何度も問いかける、「あなたはだぁれ?」。少年は決して答えない。この少女がだれだったのか、もの少年が誰だったのか、その名前すらも、私にはいまだにわからない。

これを関係性のないところに、自分がだれであるかを定義できないと、してしまうのでは、我田引水だろうか。

だから、ネットの信頼の問題も、どれだけ人と人とが緊密なネットワークを組めるかという問題に一旦はたどりつくであろう。もう、ひとつはきっとネット上の「機能性」の問題にたどりつくと感じている。「地の塩の塩辛くなければ」というくだりである。それがだれであっても、匿名であっても、2ch上の発言であっても、自分の必要な機能、成果がはたされればそれでいいとする立場に、たぶん帰着するに違いない。今回は、これに

ついてはこれ以上触れない。

■ ん、いやまてよ

天使のたまご」もネタに使って、きれいにおわれるかなと、思った瞬間、自分の大きな間違いに気がついてしまった。「あなたがあなたであるために」は、ブログとか、根拠地としてのサイトとか、持っている「人格」なら、あてはまることだ。しかし、2chにせよ、ほかのサイトのスパムコメントにしろ、根拠地をもっていない、登場人物なら、ネットの上でどこでも現れることができる、なんでもできちゃう。

あ、でも、ただ、単なる匿名のサイトとかスパムサイト(?)であるならなら、一定のネットの上の場所を占めているので、そのリンク、そのつながり、その内容、によって、その作成者の人格をある程度予想することはできる。これはまだ「あなたがあなた」の範囲であろう。ちょっと安心。

決して、使役関係を含まないから、以前「ネット認知インフレ」でかいた「ネット認知資本家」と「ネット認知プロレタリア」の関係は、適切でない部分があるのかもしれないが、信頼されるネット上の人格と信頼されないネット上の人格というのは、あらわれうる。また、サイトを持っている人でも、よく2chで散見されると聞いているが、なりすまし、という問題は、おこるのかもしれない。サイトで表現されている人格とは、別の人格になりすましてしまう、多重に別の人格を使ってしまうという問題、は残るのかもしれない。

うーん、もうちょっと腹におとさにゃ、あかんね。

■自分の不明をはじる

この前の節までが、自分が午前中に書いた記事の原稿。

いや、自分はぬるいんだな。finalventさんの記事を読んでそう思った。↑んなことしかかけない自分が恥ずかしい...

また、探せば自分程度が書いていたことなんていくらでもでてくる

こういう時に自分がネットで書くことにはどんな意味があるのか、疑問に思えてくる。でも、好き、好きなんだ...書きたいんだもの。

それは、そうと、もうこの記事はこのままここで塩漬けにして、新たなる意匠を目指そう。この分野で書きたい、このテーマで書きたい。

■参照リンク
47氏が見たラジカルな世界 by finalventさん
Freenetバージョン0.5がリリース〜“第二のインターネット”を試みる by 青木 大我さん
ネットの上の悪意 @ Yahooニュース