HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「いい男はブランドバッグと一緒」

ある飲み会で20代女子と60代女子がガールズトークを爆発させていた。その中で、「いい男はブランドバッグと一緒」という発言があった。耳の方向がガールズトークの方へ向いてしまった。なんでも、女子にとっていい男と一緒にいると、自分の価値が高まったように想うのだそうだ。おしゃれをするのも、ブランドバッグを持つのも、結局女子にとってはは自分のステータスのためなのだと。おお、そうなのか、きれいなアクセサリーや、ブランドのバッグのように自分のステータスのためにあんたたちは男を選ぶののかと!「好き!」というのは、「(あんたといっしょにるとステータスがあがるから)好き!」とか、「(あんたといるともっとおしゃれに見える私が)好き!」なのだと。ちゃんと女子の心の声まで男子は聞き取る必要がある。

で、まあ、いろいろ経験を積むと、結局は男はきちんと支払いができる財力と、その財をものにできるだけの勤勉な方がいいという結論になるそうだ。ブランドのような男とつきあうのは、女性側も並大抵ではないと学ぶのだろう。ステータスでは生きられないと彼女たちもどこかで学ぶのだろう。

ああ、そういえば。下世話ではあるが、女子の実感のこもったひとことをこの前発見した。

たのしいディルドオナニーのやり方 - Togetterまとめ

“人間相手で挿入されるのが気持ちイイと学習する場合、丸1年間、セックス時に相手を気づかってくれる男性と根気よくセックスしなくてはならないが そうゆう男性にはもれなくすでに他の女がいる。”

2017/07/18 08:42
b.hatena.ne.jp

女子のが実は本気で男を好きになるのに時間がかかるのだろうな、身体のレベルからパートナー選びに慎重になるようにできてるんだろうなと。女子のこの期待に男は応えるべきだというのが、人類数千年の文明の歴史の帰結だと信じている。男と女ができれうだけパートナーシップに恵まれることこそ、近代の「最大多数の最大幸福」であると私は信じる。

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その意味では、現代は自由を求めるあまり、退歩しているのかもしれない。


■追記

冷静に考えると交配可能な種の中での競争は、「赤の女王」のおっしゃるとおり走り続けるしかない。

「いいこと、ここにきたら、とにかく全速力で走り続けないと、今いる場所に残れないのよ!分かった?」

適応度勾配を全力で走り続けるのか?いまこの場所で創造的無能を得るのか? - HPO機密日誌

種の選択においてなかなか創造的無能という地位を得るのは難しい。やはり、競争社会となる。

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「経営者になるためのノート」を読み始める

「社長になるための12冊」という企画を進めている。

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自分がいままで読んだ本だけでなく、新たに何冊か読んでみようと想い、先日八重洲ブックセンターに行って何冊か買い込んできた。その内の一冊。

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経営者になるためのノート ([テキスト])

経営者になるためのノート ([テキスト])

これはユニクロの柳井氏が社内研修で使われていたものだそうだ。「解説」を書かれた河合太介氏が相当に整理されたものではないかと考えているが、そにしても柳井氏の熱い想いが随所から感じられる。経営者、イノベーターであり、商売人であり、リーダーであり、使命感にいきるものでなければならないと書かれている。まさにそう思う。

実際に社長になるための教育に使おうとすると、1月1冊は厳しいのかもしれないと思い始めている。とすれば、良書を何回かにわけて研修する必要がある。つまりは、かなり特殊な本をそろえるよりもエントリーレベルとしては、この「ノート」のように学ばなければならない「力」、本質がはっきりと書かれている本をテキストとして選ぶべきなのだと思い至った。

乞うご期待!といったところだ。

法で建築は規制できるのか?

建築屋が守るべき法とはハムラビ法典だと私は想っています。

若し、建築家が人のために家を建て、その工事が堅固でなく、建てた家が倒壊し、家の主人を死に至らしめたときは、建築家は死刑に処せられる。若し、主人の子供を死に至らしめたときは、建築家の子供が死刑に処せられる。・・・・・・・若し、家財を損壊したときは、損壊したものすべてを、修復しなければならない。かつ、家が堅固でなく倒壊したのであるから、建築家は自己の費用で倒壊した家を復旧しなければならない・・・・・・

建築基準法のご先祖様はハムラビ法典 - HPO機密日誌

要はひとごとで仕事をするなと。自分自身と家族がそこに住む、そこで働くつもりで建築しろというハムラビ王の教えなのだと私は想っている。これ以上になにか必要だろうか?

多田英之先生の疑問は私の疑問でもあった。ウェブでいくら"architect code"とか、"construction law"とか調べても出てこない。米国だと州毎に建築規制が違うくらいのことは知っていた。

法”Law”のレベルで建築を規制している国は日本以外にもあるのか。昭和30年代、私はそのことを徹底的に調べ上げたことがある。建築基準法の改正運動を東大の教授グループが始めた頃のこと。各国の実情をこの目で見るために、3ヶ月ほどヨーロッパにも滞在した。
ドイツ、イギリス、フランス、イタリア・・・。欧米各国の建築規制のあり方をつぶさに調査した結果、「法で建築を規制している国は日本だけ」という事実を知った。

免震の真実―耐震神話の再構築へ

免震の真実―耐震神話の再構築へ

多田先生によると、ドイツでは建築しようとすると「バウ・ポリツァイ」、日本の都道府県の建築指導課が「法」ではなく「規制」に照らして審査をする。日本では、建築確認は「建築主事」の認可事項となっていて、主事、つもりはお役人がダメだと言ったらまず抵抗のしようはない。しかし、ドイツでは設計者、建築家が十分に自身を持っていれば、「プリーフ・エンジニオール」、いわば特級建築士に相談することができる。そして、そのサインがあれば建築が可能となる。法ではなく規制なので、このような運用が可能になるのだろう。

繰り返すが、多田先生のご著書が出版された1999年、平成10年頃には、法ではあっても建築家の権限を拡大する方向で法改正が行われる前夜だった。

建築基準法は、平成10年度に、「建築基準法の一部を改正する法律」(法律第100号)により、建築基準法制定以来といわれるほど大規模に改正された。8)その基本的な骨子は、第一に、建築規制に際しての基準の性格を仕様規定から性能規定に変更すること、第二に、建築確認・検査制度を指定確認検査機関により行わせる民間開放と中間検査の新設により、その実効性を確保すること、第三に、土地の有効利用に資する建築規制手法の導入(連担建築物設計制度の創設)である。

http://www.ps.ritsumei.ac.jp/assoc/policy_science/073/073_19_yonemaru.pdf

多田先生のいきどおりは、出版された頃までは法律で建築物の構造の設計そのものが規定されていた。「仕様規定から性能規定」とは、地震や火事などに対して必要な性能を法律で定め、その性能をみたすことできる設計であればよしとする、「建築基準法制定以来といわれるほど大規模に改正」であった。不幸なことにこの後、耐震偽装事件が起こりかなりの混迷の時代を経て、改めて性能規定による設計が定着してきたと言える。

多田先生は、本書の中で法と官僚が建築を縛れば、建築の進歩はなくなる、ものづくりの精神が衰退すると書いていらっしゃる。多田先生の目線は、超高層建物や、建築センターでの審査が必要とされるような高度な建築物にあることを忘れてはならない。60m程度までの建築物も、民間で確認ができるようになったし、免震についても告示免震と言われる一定の仕様、性能を示す構造設計ができればよしとするように規制が変わってきている。

規制とものづくり。相矛盾することがらだが、よくよくバランスがとれていなければ確かに進歩発展はない。難しい問題ではある。

改正刑法(性的な被害)

性的に平等になったと聞いた。

news.yahoo.co.jp

この中で、特に「性的な被害」は具体的には下記のように変わったと。

(旧)(強姦かん)
第 177 条 暴行又は脅迫を用いて 13 歳以上の女子を姦淫(かんいん)した者は、強姦の罪とし、3 年以上の有期懲役に処する。13 歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。

(新)(強制性交等)
第 177 条 13 歳以上の者に対し、暴行又は脅迫を用いて性交、肛(こう)門性交又は口腔(くう)性交(以下「性交等」という。)をした者は、強制性交等の罪とし、5 年以上の有期懲役に処する。13歳未満の者に対し、性交等をした者も、同様とする。

http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10350891_po_0962.pdf?contentNo=1

ちなみに、犯罪の対象となる行為も赤裸々だけ書き換えられたそうだ。

2. 強制性交等罪は肛門性交・口腔性交も対象

2-1. 改正前

強姦罪は暴行・脅迫を用いて陰茎を膣口に挿入することにより成立する罪であった。

→肛門性交や口腔性交を強要しても強制わいせつ罪にしかならなかった。

2-2.改正後

強制性交等罪は、暴行・脅迫を用いて肛門性交や口腔性交をすることによっても成立することとなった。

性犯罪規定改正の要点 ~ 非親告罪化は被害者を救うか - 弁護士三浦義隆のブログ

弱男性が増えて強女性が増える中、よいことだと私には思える。

弱者男性とは、

(中略)

C.女性を含めた他者に対するアクション−リアクションをスムーズに行うことができない(と周囲から思われていたり、自分で思いこんでいたりする)人びと(≒コミュニケーション弱者)

弱者男性って? - HPO機密日誌

男女の平等が進む中、女性側が弱いという前提で書かれていた諸処のルールも次第に書き換えられていくのだと思われる。

多田英之先生の予言

技術者と科学者の違いは、物をつくるか、ものを観察するかの違いだと、多田先生はおっしゃっている。そして、科学者は技術者でなければ本質を見失うと。ガリレオは技術者として望遠鏡を作ることができたがために、科学者として正確な天体観測を行うことができ、地動説を確信することができた。物づくりの視点から見るとものがよく見えるのだということが、多田先生のご著書を読んで見てよく分かった。

hpo.hatenablog.com

本書が1999年の出版であることを念頭に置いて以下の引用箇所を読んでいただきたい。

免震ゴムとダンパーを一体型にして、生産効率向上をうたっている免震部材が市場に出回っている。しかし地震国の日本においては、一体型ではその性能が確保できない状況に、少なくとも今のところはある。今の現実的な解析手法から言うと、ダンピングとバネは別項目で処理しないと数学的に解くのは困難である。それゆえ、私は積層ゴムとダンパーの別置き型を開発した。
(中略)
かつて、国内外のメーカーは積層ゴムにタイヤのゴムを流用して使ってた。積層ゴムは何百トン、何千トンの建築物を支え続ける。タイヤ用のゴムは硬度69と硬いから良かろう、と考えたのである。
(中略)
カーボンを増やすと鉄は強くなるが、もろくなる。ゴムも同じで、添加剤によって一つの特性を強めることで、他の特性が損なわれることになる。耐久性を高めるために、何らの添加剤を加えなくても、ゴムはゆうに100年間は持つことは調査、研究によってわかっていた。つまり「もれない」ゴムにすること以上に、何らの添加物を加える必要も、積層ゴムに使用するゴムにはなかった。積層ゴムに支えられた建築物は、文字通り「水に浮かんだ家」なのである。」

事件が起こってから知ったのだが、多田先生のご指摘の通りタイヤのゴム、人造ゴムを使った免震装置の働き方は、天然ゴムのそれと比べると大変複雑であった。建築に関わる仕事をしてはいても、構造についてはあまり詳しくない私にとっても人造ゴム系統の免震と天然ゴムのそれの挙動、必要性能の複雑さは明らかだ。「事件」が起こる15年以上前に多田先生はこの根本的な問題を指摘したいと言える。

2015年3月13日 免震ゴムの性能データ改ざん
国土交通省は、東洋ゴム工業(発覚時は、東洋ゴム化工品に事業が移管されている)が製造・販売した建築物の免震機構に用いられるゴム製部品について、不良品の出荷や性能データの偽装があったと発表。データ偽装が行われていた製品(3種類)は同日付けで大臣認定が取り消された[12]。日本国内の自治体の庁舎・マンション・病院で使用されており、棟数は55に及ぶ[13][14]。これを受けて同社は2015年6月に山本卓司社長らの引責辞任を発表した[15]。

東洋ゴム工業 - Wikipedia

これだけではない、耐震偽装事件についても予言的なことをおっしゃっている。

論理構造だけでどこまでも進むことはできない。今危惧しているのは、確認できないものをコンピューターを駆使し、コンピューターの領域で”確認”して、その結果を実態、非概念と重ねて設計しようという風潮が強まっていることである。原子力の世界もそうだ。建築の社会もその例外ではない。これはゆゆしき問題である。自然との対決、物そのものの実体をあまりに甘く見ることで、近い将来、大きなしっぺ返しを食らうことが心配でならない。

この前にはイールドヒンジという、建築の構造計算において「みなし」的に規定されている理論を批判的に書いていらっしゃる。あまり知られていないかもしれないが、耐震偽装事件、姉歯事件は、コンピューターの構造計算の出力さえ字義的に合っていればよいという姿勢から生まれた。あまりに膨大になる構造計算プログラムの出力の一部を省略できる、図書省略制度を悪用した事件であった。これは、字面さえあっていればという姿勢で、実物の大切さが見失われたことから生まれた悲劇的な事件であったと言える。建築に関わるものとしてそれこそ風化させてはならない教訓としていまも捉えている。

最後に原子力行政。福島第一原発事件が起こった背景を指摘されていると私には思える。

(情報公開を徹底したらパニックが起こると政治家が思う)思い上がり、手抜きが悪い影響をもたらしている顕著な例が原子力行政である。動燃と初めて仕事をしたとき、「原子力分野に免震を導入したい」という話しがあった。それに関して原子力研究所の副所長と夕食を共にした際、「あたな方は、やり方を間違えている」と私は常々抱いていた原子力行政に対する不満を口にした。「原子力は安全だと言うべきではない。ここがこのように、危険である、と言うべきだ。こういうときには、このように対処すると、ひとつひとつ明らかにしていったら、絶対に賛成票の方が多い。反対運動は論拠を失う」原子力行政に対する反対運動の一番の攻め口は「情報を公開せよ」ということ。公開したら原子力推進はダメになるのかーーーー。その反対である。

この先に、更に多田先生の批判の目、技術者としての目は深いところへ向いていく。また書きたい。

偶然と必然

転載、その3。

偶然と必然


彼女との出会いは、まだ人を好きになるということがどういうことなのかを知る前だった。それは、自分達の「今日」が「昨日」になり、そして「昨日」が「記憶」や「過去」になるということが理解できる前、いわば永遠の「今日」に生きている子供時代の出会いだった。そして、たまたま同じ場所にいたという偶然のできごとが、彼女でなければならないという必然へ変わっていくための時間は十分すぎるほどあった。


彼女を思い出すとき、必ずあるイメージがよみがえる。髪をおさげにして、学校の制服を着た彼女の姿だ。それは、今でも彼女を思い出すたびに、ぼくのなかで鮮烈によみがえってくる大切なイメージだ。赤いスカーフをさげた、セーラー服の彼女は、いつも通った公園の緑を背に立っている。いつでも、彼女はまっすぐにものをみる。ぼくのなかの思い出のイメージでも、両手を握り締め一心に前を向いている。それは、今でも変わらない。


正確に彼女といつあったのかは、幼い記憶のなかにまぎれてもはや分別が不可能になっている。ただ、私立の新設の小学校で、各学年に1クラスしかなかったために、こじんまりした家族的な雰囲気が全体に漂っていたので、同じ方向に帰宅する彼女とぼくが知り合いになったのは、不自然ではないだろう。


まだ、きっと彼女が背負っていたランドセルは、彼女の華奢な身体に重くのしかかるように見えたに違いない。指定の帽子をかぶった彼女を送るのが、ぼくの楽しみだった。何を一体小学生の僕達は話していたのだろう。彼女と、彼女の家の近くの男の子と、ぼくの三人で桜の花の咲いている坂道を登っていったのを覚えている。あの時の足取りは、もはや小学校1年生ではなかった。ぼくが小学校5年生か6年生、そうすると彼女はまだ3年生か4年生だ。しかし、ぼくにとって、彼女は十分に恋愛の対象となりえていた。


彼女は、人を見抜くような利発そうな目が印象的だった。細くすんなりと伸びた手足とこじんまりとバランスのとれた顔と頭、そして長く伸びた彼女の髪。大人だったら思わず抱きしめてほおずりしたくなるような、かわいらしげなしぐさ。彼女が公園の木の根元を首をかしげながらじっと見つめていたのを思い出す。華奢でかわいらしい身体だったのに、その目は常に冷静に人を見抜いているような目だった。


小学生の頃というのは、特に手足がのびる時期がある。成熟したプロポーションとは違う、人に華奢であることでかわいらしいという想いを起こさせるような身体だ。今でも小学生の生徒の中にやせっぽちの手足の華奢な少女に彼女の面影を見かけることがある。その面影は、ぼくをとても混乱させる。


桜の咲く坂を登りきったあたりにぼくの家があった。よく家から自転車で彼女を送っていったのを覚えている。彼女の家はぼくの家からまだ子供の足で20分とか30分も先にあった。自転車で、彼女を乗せて送っていくということは、彼女がぼくに好意を持ってくれている証拠だと信じていた。いつかは彼女に自分の想いを伝え、彼女が自分をどう思ってくれているのか知りたいと想っていた。想いがすべてだった。


自転車で送っていくときには、彼女はぼくにしがみついてくれていたのだろうか。あれだけ長い時間いっしょにいたのに、不思議と身体の重量感が残っていない。場面、場面のイメージはあんなに克明にぼくの中で生きているのに、いわば天使のように重さのない存在だった。いわば性が未分化だったころの想いだけが、純粋なのかもしれない。好きという想いが、愛し、接触し、大人の愛を生む前の結晶のような純粋な想いだけが残っている。


彼女に告白めいたことをしたことすらも記憶している。あの頃の好きという感情が現在の人をいとおしく思う気持ちとはまったく違うものなのだろう。好きだという気持ちをそこからどう発展させて良いのか、深化させれば良いのか、考えてみることすらなかった。ただ、好きだという想いは確実にあった。彼女はぼくよりも2つ下だったから、ぼくよりももっともっと幼かったはずだ。小学生のころの2才というのは本来相当な差があるはずなのだが、いつも彼女との会話では彼女に上手を取られていた。その日ももう一人二人の彼女の同級生といっしょに帰ってきていたに違いない。「好きな人はだれ?」とか「○○さんが好きでしょ?」とか、そういう幼い想いを告白する、あるいは暴露するのがその年代の主要な関心事であったのだろう、例によって話をしているうちに彼女にぼくは誰が好きかを告白しなければならないはめになっていた。いまだに思い出すと恥ずかしい思いでいっぱいになるのだが、彼女を自転車の二人のりで送りながら、「好きな人って...君だよ。」と、告白した。


子供の頃の想いは、一体どこまでいこうとしていたのだろうか?今なら相手の身体から快感を引き出す方法も熟知している。身体的にも、心理的にも相手を満足させる能力をお互いに持っているだろう。子供のころの「好き」は、まだ隠れて見えなかったそうした「性」を目的としていたのだろうか?相思相愛になって、手でもつなげば満足だったのだろうか。


こどもの頃の1年1年は顔があった。小学校4年生の1年間と、5年生の1年間はまるで違う時間が流れていた。まるで違う自分がいて、彼女がいた。いつから年の顔がなくなってしまったのであろうか?それは、ぼくが小学校を卒業して彼女とはもういっしょに下校しなくなった年からだ。


2002.4.26

経営者には純粋な人が多い

某経営者が5000人近く集まる恒例の世界大会に参加してきた。改めて、「ああ、なんてすごい経営者がいるんだろう、なんでこんなに誠意を尽くして成功を勝ち取っているんだろう」と胸が熱くなった。

どうも経営者というと、社員を搾取しているとか、ブラック企業で休みを与えないとか、狡猾な印象を与えがちだが、私の見る限り、経営者は純粋な人が多い。少なくとも上場する規模になるまで、中小企業ではお金を借りなければやっていけない。そして、お金を借りるためには代表者の個人保証が必要となる。真剣に経営に取り組む以外に人として生き残る方法はない。失礼ながら、従業員である限り、どれだけ過酷な労働条件を突きつけられても、労働関連法規と判例に従業員は守られている。破産した場合も労働債権が第一番の保全順位。連帯保証を法人にしている限り、逃げ道はないのが代表者。よほど純粋にド真剣に仕事に取り組んでいるのでなければできない。

昔、中小企業の継承のパラドックスを考えた。

[中小企業の後継者のパラドックス]

    • 職業選択の自由
      • 優秀なやつは大企業に入り出世する
      • 野心のあるやつはベンチャー企業を創設する
      • 平凡なら普通にサラリーマンになる
    • したがって、中小企業の後継者になる人間は、優秀でなく、野心がなく、変わったやつ。
守成に必要なもの - HPO機密日誌

いまなら、使命感を持った純粋な経営者であればこのパラドックスを乗り越えられるのだと断言できる。自分の企業に対する純粋で積極的、肯定的な想いは、一般常識を乗り越えて企業を成長させる、充実させられる。

経営者の仕事とは精進そのものだと想っている。人としての成長がここにこそあると。