HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

五円玉はペニスの輪切り

栗本教授の「パンツをはいたサル」に貨幣は性器からかたどられたという話しがあった。これは、愛と嫉妬が、信頼、所有、法を産んだひとつの証左ではないかと私は考えている。

パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か

パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か

そして、中国やオリエントの古代の貨幣の形は女性器からかたどられていると。中国の貝を貨幣に用いた例などが特に顕著だと書いてあった。世界的には、穴のあいた貨幣は珍しいそうで、日本の五円玉に穴があいているのは、男性器からかたどられたからだと論じておられた。そういえば、草間彌生の水玉は切り取られたペニス。

この写真を見てはっとした。なんと若き草間彌生が無数のペニスの上に寝転がっている。現在の水玉の作品にいたるまで、草間はひとつのテーマで描き続けているのではないだろうか?

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http://reikoyamamoto.blogzine.jp/ynot/2011/08/post_48d0.html
草間彌生の水玉は去勢されたペニス - HPO機密日誌

先般論じた愛と暴力と経済の問題は、進化心理学の問題に包含されるらしい。栗本教授の「全世界史」を読むか、「サピエンス全史」を読むか、迷っている。いずれにせよ、それだけの時間と体力があればだが。

栗本慎一郎の全世界史 ~経済人類学が導いた生命論としての歴史~

栗本慎一郎の全世界史 ~経済人類学が導いた生命論としての歴史~

認知革命

7~5万年前ぐらいから現れる認知革命については,ハラリはかなり独特の解釈をしている.これは言語が「虚構」を集団で扱うこと可能にした結果だというのだ.ヒトがダンバー数である150人を超えて協力できるのはこの「虚構」の力だと力説する.ハラリによると部族の精霊や宗教だけでなく現代の法律や制度もすべて「虚構」であり,ヒトはそれにより大規模な社会を可能にしているということになる.そしてこのような「虚構」は,その上で人々が複雑なゲームをするようになって,自己増殖的にさらに複雑になり,歴史的記述が必要になる.

書評 「サピエンス全史」 - shorebird 進化心理学中心の書評など

教育勅語は風刺するものではない

高橋源一郎氏は、いつも人をちゃかした文章を書いて食べている人だという印象がある。それが国だろうと、宗教だろうと、セックスだろうと、この人にかかるとすべてが軽くなる。売文で食べていくのも、ものごとを軽くするのも結構だが、この高橋源一郎氏の教育勅語の現代語訳は最悪だ。

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教育勅語が出された明治23年とは、大日本帝国憲法が施行された年。教育勅語も、「五箇条のご誓文」から始まる日本の憲法の伝統、歴史と合わせて読まれなくてはならない。まず、天皇陛下が自ら誓われた明治の政治体制の原理原則があり、明治憲法が成立した。この時点で発布された教育勅語は、ご誓文、憲法を補う意義があったととらえるべき。*1「教育」とは「教え育てる」こと。天皇陛下が自らの出自、祖先の自慢をするようなものではなく、日本が国としてどうまとまり、どう欧米列強からの圧力のもとで独立を維持していくかの指針を示したもの。国民と天皇陛下との真剣勝負なのだと私は想う。

大日本帝国憲法は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された、近代立憲主義に基づく日本の憲法

大日本帝国憲法 - Wikipedia

hpo.hatenablog.com

1928年生まれの「チューさん」の現代語訳が、教育勅語を奉読され、戦後を生き抜いてきた世代の方の実感がこめられていて、すばらしい。

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教育勅語と現代語訳

同様に教育勅語に関する戦後の国会の決定がいかなる状況下であったかを理解しなければならない。「チューさん」はこう書かれている。

昭和20年(1945年)8月の敗戦後、日本を占領した連合国軍の最高司令官総司令部(GHQ)は、教育勅語の朗読と神聖的な取りあつかいを禁止しました。ついで占領下の日本の国会では、昭和23年(1948年)6月19日に衆議院が「教育勅語等排除に関する決議」を、参議院が「教育勅語等の失効確認に関する決議」を決議し、それに代わるものとして、教育基本法が制定されました。

教育勅語と現代語訳

昭和23年とはいうまでもなくまだGHQ占領下。GHQは「日本にくびきをつけろ」という政策で、戦前のような軍事国家に日本を二度としないために取れる施策はすべて採った。なにせ、日本国憲法を書いた米軍将校自身がのちに「あれはたちまち独立を回復したら全面改正されるものだと想っていた」と話しているほどだ。日本が「普通の国」であれば、憲法も改正し、教育勅語の失効などという国辱的な国会決議も取り消したはずだ。

軍事国家に帰れというつもりはない。また、戻れるわけもない。しかし、これを風刺し、日本の国の伝統を否定し、これまでの歴史を若い人達に否定的に伝えるのはやめてもらいたいものだ。


関連エントリー

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*1:-教育勅語と現代語訳
「当時の大日本帝国憲法(明治憲法)では「凡(すべ)テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅(しょうちょく)ハ国務大臣ノ副署(ふくしょ)ヲ要ス」と定められていましたが、教育勅語明治天皇ご自身が国民に親しく語られるお言葉であり、国務に関する詔勅に該当しないものとして、国務大臣の副署を付けない勅語として発布されました。」

「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」

昨日、あるところで勉強会があり、稲盛塾長がおっしゃった言葉を引用しようとしてその場で思い出せなかった。
「小善は非情に似たり・・・、あ、いや」と。あまりに恥ずかしかったので、調べてみた。

この意味は、「自己の満足のために行う小さな善行(小善)は、それが善意から発したものであっても、結果として人を傷つける(大悪)のと変わらない場合がある。それに対して心から相手の幸せを考えて行う善行(大善)は、場合によっては厳しい言葉や突き放した行動を伴うため、情け容赦のない態度(非情)と誤解されることがある。」というものです。

小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり : 「人」を活かす経営の着眼点

塾長が、「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」とおっしゃったのは、JALの再生に乗り出された頃のこと。詳細は、書くべきでないがなんとしてでもJAL再生を果たすとの想いを、塾生からの質問に答えながらおっしゃったと記憶する。「大善は非情に似たり」と、泥をかぶることになっても、JAL再生が「大善」であると。

ましてや、「小善は大悪に似たり」を理解すらしていなかった。いろいろな学びの機会をいただいているにもかかわらず、この言葉すらでてこないとは文字通り「小善は大悪に似たり」を地で行っている。自分にとっていいところだけ、自分にとって都合のいいところだけを、切り取っている学びになっているのだと反省しなければならない。

改めて、実践項目として「六つの精進」を掲げる。

①誰にも負けない努力をする
②謙虚にして驕らず
③反省のある毎日を送る
④生きていることに感謝する
⑤善行、利他行を積む
⑥感性的な悩みをしない

京セラフィロソフィ

京セラフィロソフィ

本当にこれまでどれだけ塾長からの教えに救っていただけたか。かなり深刻に悩んでいる頃に、「会社の使命とは社員の物心両面の幸福実現」と言い切れるように教えていただき、どれだけ経営が楽になったかわからない。中途半端に、社員の満足と会社を存続させるために必要な利益の確保の間で悩んでいた。利益は後、社員の物心両面の幸福実現が先と考えてからの方が経営が安定した。「物心両面」というのが大事で、給与だしているからいいだろうではなく、常に社員の心のドアをノックするにはどうしたらいいか考えている。まだまだできていないことばかりだが。

小善に陥らず、非情とみられることも顧みずに、自分の使命、大善、めざして六つの精進をしていくことは改めて誓う。

「孔子暗黒伝」を読める幸せ

ふと、諸星大二郎が読みたくなり、Amazonで捜した。あった!注文したのは夜中だったのに、翌朝には出荷され、夜にはポストに入っていた。そりゃ、宅急便の人たちも大変だわな。

孔子暗黒伝 (集英社文庫―コミック版)

孔子暗黒伝 (集英社文庫―コミック版)

連載のリアルタイムで読んだわけではない。なぜか断片的に何度も読んだ記憶がある。ああ、覚えてる!と思ったシーンは随所にあった。蚩尤、饕餮とか、獅子面の老人とかとか。子供のころ、なにかどきどきしたものを感じた絵柄だった。通して読んだことは、今回初めて。孔子仏陀は、生年が重なっていたか?など、興味をそそられる。東西南北の四神など、基本を押さえて大胆な仮説を表現している。再読したい。

いずれにせよ、昔は古本を漁るか、床屋の待合で探すか、大変な労力が必要だったものが、こんなに手軽に読める時代になった幸せを実感する。

酒と薔薇のない日々

人生最悪のOysterな日々を乗り越え、酒も飲まない、宴会もない、ゴルフもしない*1日々を送っている。実に健全だ。先々週までのあれだけ忙しい、忙しい、時間がない、時間がないを連発していた日々はなんだったのだろうか?忙しくて、テレビ見る時間もない、読書する時間もない、ブログ書く時間すらないという生活はなんだったのか?

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体重も結構減った。5%弱。でも、よい子は絶対まねしちゃダメ。今日、会った医者からは「牡蠣は下手をすると命に関わる。よくよく気をつけた方がいい」と言われた、私の目の前でおいしそうに牡蠣フライを食べながら。

それにしても、人生って病気をするとパートナーが大事だとつくづく思い知る。今回は、いまのパートナーに本当に助けられた。立っていても、坐っても、寝ていても、なにをしてもとにかく痛かった。最悪の時期には、車の運転すらできなかった。心身ともに助けられた。一人では絶えられなかった。

自分で言うのもなんだが、記憶に残る限り誰かに心から甘えたことはない、依存しつくしたことはない。ほぼ、ひとりぼっちで過ごして来た。そうそう、モーリー・ロバートソンのように「よくひとりぼっちだった」。初めてお付き合いをした女子にモーリーの本を贈られた。「あなたに似ている」と言われた。いやいや、本当はモーリーの生き方は彼女自身の生き方に似ていたのかも知れない。いやいやいや、モーリーと誰が似ていようと、その女子から始まって、破綻した結婚生活、幾人かの異性とのお付き合い、さかのぼれば母親からも、独立して一人で生きてきたように記憶する。いつも、お互いに独立して強く生きるつきあい方しかしてこなかった。ああ、我を張り合う生き方だと言ってもいい。

よくひとりぼっちだった

よくひとりぼっちだった

先々週はパートナーが具合が悪かった。一晩とは言え、大変だった。で、既述の通り先週は私が具合が悪かった。ああ、「病める時も、健やかなる時も」って本当なんだなって実感した。いままで誰かと付き合っていても、どこかで「保険」をかけていた。この関係が破綻しても、どうにかなるという線は守っていた。実際、どちらが病気の時も、お互いにいやな思いしかしてこなかった。そりゃ、そうだ、我の張り合いなのだもの。結果、離婚や、ここでは書けないほど重大な事態を引き起こしてきた。いま、初めて「保険」などかけず、逃げ道も作らずに、そのまま人生を共にしてもいいかもしれないという気持ちでいられる。まさに私にとって「酒と薔薇のない日々」だ。


酒と薔薇の日々 [日本語訳付き]  ジュリー・ロンドン

この数日間書いた愛が経済を生んだという一連のエントリーは、パートナーによってはじめて心から満たされるという体験が動機になっている。この関係は「互助」ではない。幻想であっても、相手への、相手からの「無償贈与」の感覚があって初めて、真のパートナーシップが成り立ち、役割分担できるのだと知ったことに基づく。

hpo.hatenablog.com

1年後に機会があれば、またこの経過をエントリーにしたい。ハッピー・ホワイトデー!

*1:本当は少しはしている、でも以前と比べると激減

愛と嫉妬が、信頼、所有、法を産んだ

男と女の愛が人の社会と呼べるほどの信頼の基盤を産み、嫉妬が所有を発生させ、ハラスメントが法概念を生んだことを論じたい。

不十分ながら、男と女の愛が信頼の基盤であることは、先のエントリーで論じた。では、なぜそうなったのかをここでは話したい。

hpo.hatenablog.com

目次

ポロメオの結び目モデル

嫉妬がなぜ所有を発生させるのか論じたい。それは、男女間の愛が不完全であるから。桃知さんのポロメオの結び目に戻ろう。

天鬻 - HPO機密日誌

先のエントリーとは矛盾するように聞こえるが、人は長ずるにつれて人を信頼しなくなるものだ。親子、正確には母子関係においてのみ、幻想として想定される一体性、絶対の信頼、無償の愛があったと人は信じている。いわば、このポロメオの結び目すらが分化しておらず3つの輪がまだ未分化な状態として人は生まれ、親に育てられる。そこには、絶対の信頼感があり、自分が与えられて育っていくという交換と経済が一体として存在している。

3つの輪として分化する、親子の関係性にくさびが打たれることによって、子供から大人へと成長していく。くさびを打たれるので、さまざまな痛みを伴いながら1つの輪が3つの輪へと分化していく。「贈与」の輪の分離、すなわち「贈与」行為の主体となった時に、人と人との関係性において大人となったと言える。また、「交換」の輪が外形的に分化しきった時、経済的に大人になったと言われる。男と女の愛とは、互いの「贈与」も「交換」も「純粋贈与」の付随物だと瞬間、擬制される。3つの輪が未分化だった幼児の時に帰る。「大人」の機能を停止させ、「子供」に帰ることによってのみ、恋愛は成就しうる。相手に対して「無償の愛」を抱けると幻想する。

交流分析において、この関係性を見てみる。

ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ビビリ、ムカムカ。これらの5つの要素は、そのままではないが、交流分析のFC(Free Child:自由な子供)、NP(Nurturing Parent:養育的な親)、CP(Critical Parent:規範的な親)、AC(Adaptive Child:他者順応な子供)、A(Adult:大人、理性)にちかい。

「インサイド・ヘッド」(ネタバレあり) - HPO機密日誌

大人の健全な関係性は「A:大人」から始まる。儀礼的なあいさつ、社会的な地位情報のやりとりなどがこれにあたる。いうまでもなく親子関係では、「C:子供」と「P:親」の心の機能がそれぞれの主体の中で発揮され、建設的なものであれ(FC:自由な子供−NP:養育する親)、抑圧的なものであれ(AC:適応する子供−CP:批判する親)、やりとりが始める。恋愛関係においては、文脈に応じて「FC−NP」から始まる(「彼って、固い人かと思っていたけど、案外子供っぽいところがあるのね、あんなに目を輝かせてる」)。一方的にFCが男、NPが女と固定的になるのではなく、その役割がくるくると入れ替わる中で男女の仲は深まっていく(「ああ、彼女のさびしげな背中を見ていると抱きしめてあげたくなる!」)。そして、どこかで「C:子供」と「P:親」の役割が不分明になり、どこまでもどこまでもFCでいても相手が許容してくれると幻想していく。

男と女の愛が深まるについて、どこか子供じみたやりとりが増えるのはこのせいではないか?男と女が追いかけっこをしたり、水をかけあったり、ふざけあうさまは明らかに子供(FC)と子供(FC)のやりとり。本当の無償の愛ではなくとも、お互いがお互いに子供同士に還って無償の愛を模倣しあう中で、いのちのやりとりへとつながっていく。子供を産むか産まないかという選択をする時点で命のやりとりなのだとここでは指摘していく。

ポロメオに戻れば、3つの輪、特に無償贈与と贈与の輪が十分に接近してくるのがこの過程であると。

豚か女神か?

近づいたものは、いつしか離れなければならない。男女の愛と親子の愛。一般的に考えれば、前者はどこかに打算を含み、後者は無償の愛と考えられる。多くの恋愛の悲喜劇とは、この二つの混同から始まると考えれる。前述のように、男と女の愛は不回避にこの混同から始まる。

www.yotuba.xyz

以前、夏目漱石の「夢十夜」を引きながら男と女の関係について書いた。この箇所。

 女といっしょに草の上を歩いて行くと、急に絶壁の天辺へ出た。その時女が庄太郎に、ここから飛び込んで御覧なさいと云った。底を覗いて見ると、切岸は見えるが底は見えない。庄太郎はまたパナマの帽子を脱いで再三辞退した。すると女が、もし思い切って飛び込まなければ、豚に舐められますが好うござんすかと聞いた。庄太郎は豚と雲右衛門が大嫌だった。けれども命には易(か)えられないと思って、やっぱり飛び込むのを見合せていた。ところへ豚が一匹鼻を鳴らして来た。庄太郎は仕方なしに、持っていた細い檳榔樹(びんろうじゅ)の洋杖で、豚の鼻頭を打った。豚はぐうと云いながら、ころりと引っ繰り返って、絶壁の下へ落ちて行った。庄太郎はほっと一と息接(いきつ)いでいるとまた一匹の豚が大きな鼻を庄太郎に擦りつけに来た。

夢十夜 - 暇つぶし青空文庫

この豚は次から次へと再現なく出てくる。しまいには、庄太郎は重い病になってしまう。「夏目漱石の妻」 第1回・第2回 - HPO機密日誌を見た後であると、この「豚」という妻に対する評価はあまりに不当だと言いたくなるが、以前のエントリーをそのまま引くにとどめる。

まことにまことに男と女の話はかならず命のやりとりにつながる。それは「夢十夜」のとおり。そして、人として生まれてきてその問題を避けて通るわけにはいかない。いや、避けて通る方が地獄への道に直結している。

妻は豚か?それとも、女神か? - HPO機密日誌

豚のようにうんざりする存在であっても、恵みを与えるてくる女神(男神)であっても、男と女の関係はどこかで「いのちのやりとり」に行き着く。しついこいようだが、どの道を通ってもここにたどり着く。なぜなら、男と女の愛は無償の愛の擬制だから。このことを、「擬制」と「豚と女神」の関係をさきのポロメオに矢印として入れてみることで示す。

ポロメオ、愛、経済

愛の果てに結婚に至った時の「愛の擬制」が女神の神性の獲得と喪失、「結婚経済」が「豚」の現実を示すのはいうまでもない。男と女は既に大人だ。子供ではない。お互いがお互いに対して、無償の愛を無限に注ぐことはできない。お互いがお互いに無償の愛を欲望しながらも、その成就が不可能だとどこかで理解する。この矢印のように、引力と斥力がほどよく働き男と女の関係性が維持される(どれだけの期間かは別の問題として・・・、豚と女神の間をいったりきたりしながらも・・・)。

それでも、この引力と斥力のつりあいにおいて、ポロメオの3つの輪が分化してから初めて男女の愛において外形化された信頼がここで生まれた。

嫉妬と所有

男と女の愛は擬制でしかない。擬制が不可避にもたらす亀裂を、意図的に相手に使えば、昨日論じたようにハラスメント、暴力となる。意図せざるものであり、意識化されていない互いの裏切りは、狂気へとつながる。

hpo.hatenablog.com

ハラスメント、狂気への契機はいうまでもなく嫉妬だ。男女の愛の結果としての嫉妬からいくつの悲喜劇が生まれた来たかは知らない。これまた類推を許されれば、人類の歴史、人類の数だけあると言えよう。逆に言えば、まさにこの嫉妬の結果として家族が誕生した瞬間からネアンデルタール人と私達人類の先祖との間の運命を分けたのだと主張したい。

ネアンデルタール人は猿と同様の群れの形態であったのではないだろうか?アルファメールと女子供の群れ。それが、道具の進歩により群れと群れとの争いの激化してきた。これまではと圧倒的に死傷率があがったのだろう。戦争の発生だ。より多くの男を取り込まざるをえなくなった。結果、乱婚を許容する群れの状態が発生しネアンデルタール人の中で留まった。であるがゆえに、大脳も、両手も私達同様に上手に使えたのに違いないのに、経済を成長させられなかった。文明を発祥させることができなかった。

いくたのハラスメントと暴力の果てに、「家族」を制度化することに成功したのが私達の先祖ではないだろうか?男と女の愛という狂気を含む危険な力は、本能が壊れてしまった種である人類にはどうしても必須だった。この愛という狂気を自分達の群れの中で飼い慣らすには、儀礼を産み出すしかなかった。男が女が対で所有され合う関係を群れの中で認める行為が結婚となり、家族の単位の形成へと進んだ。男が女を、女が男を所有し、家族で暮らすにいたり、相手への愛を外物に投与することによりさまざまな「所有物」の概念が生まれたのではないだろうか?群れの中で、男と女の狂気を封じ込めるためには、儀礼が必要であったし、それが一般化して、群れのルール、部族のルール、社会のルールへと変わっていった。男と女の狂気を封じこめる力が儀礼の根源であり、法律の淵源なのだ。


素描もいいところだし、人が読んでわかるしろものではないが、私が現在至った人の世の成り立ちについての三日間に渡る考察を一端ここまでとする。よくよく咀嚼してまたトライしたテーマである。

この3日間のエントリーを桃知さんに捧げたい。