HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

酒と薔薇のない日々

人生最悪のOysterな日々を乗り越え、酒も飲まない、宴会もない、ゴルフもしない*1日々を送っている。実に健全だ。先々週までのあれだけ忙しい、忙しい、時間がない、時間がないを連発していた日々はなんだったのだろうか?忙しくて、テレビ見る時間もない、読書する時間もない、ブログ書く時間すらないという生活はなんだったのか?

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体重も結構減った。5%弱。でも、よい子は絶対まねしちゃダメ。今日、会った医者からは「牡蠣は下手をすると命に関わる。よくよく気をつけた方がいい」と言われた、私の目の前でおいしそうに牡蠣フライを食べながら。

それにしても、人生って病気をするとパートナーが大事だとつくづく思い知る。今回は、いまのパートナーに本当に助けられた。立っていても、坐っても、寝ていても、なにをしてもとにかく痛かった。最悪の時期には、車の運転すらできなかった。心身ともに助けられた。一人では絶えられなかった。

自分で言うのもなんだが、記憶に残る限り誰かに心から甘えたことはない、依存しつくしたことはない。ほぼ、ひとりぼっちで過ごして来た。そうそう、モーリー・ロバートソンのように「よくひとりぼっちだった」。初めてお付き合いをした女子にモーリーの本を贈られた。「あなたに似ている」と言われた。いやいや、本当はモーリーの生き方は彼女自身の生き方に似ていたのかも知れない。いやいやいや、モーリーと誰が似ていようと、その女子から始まって、破綻した結婚生活、幾人かの異性とのお付き合い、さかのぼれば母親からも、独立して一人で生きてきたように記憶する。いつも、お互いに独立して強く生きるつきあい方しかしてこなかった。ああ、我を張り合う生き方だと言ってもいい。

よくひとりぼっちだった

よくひとりぼっちだった

先々週はパートナーが具合が悪かった。一晩とは言え、大変だった。で、既述の通り先週は私が具合が悪かった。ああ、「病める時も、健やかなる時も」って本当なんだなって実感した。いままで誰かと付き合っていても、どこかで「保険」をかけていた。この関係が破綻しても、どうにかなるという線は守っていた。実際、どちらが病気の時も、お互いにいやな思いしかしてこなかった。そりゃ、そうだ、我の張り合いなのだもの。結果、離婚や、ここでは書けないほど重大な事態を引き起こしてきた。いま、初めて「保険」などかけず、逃げ道も作らずに、そのまま人生を共にしてもいいかもしれないという気持ちでいられる。まさに私にとって「酒と薔薇のない日々」だ。


酒と薔薇の日々 [日本語訳付き]  ジュリー・ロンドン

この数日間書いた愛が経済を生んだという一連のエントリーは、パートナーによってはじめて心から満たされるという体験が動機になっている。この関係は「互助」ではない。幻想であっても、相手への、相手からの「無償贈与」の感覚があって初めて、真のパートナーシップが成り立ち、役割分担できるのだと知ったことに基づく。

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1年後に機会があれば、またこの経過をエントリーにしたい。ハッピー・ホワイトデー!

*1:本当は少しはしている、でも以前と比べると激減

愛と嫉妬が、信頼、所有、法を産んだ

男と女の愛が人の社会と呼べるほどの信頼の基盤を産み、嫉妬が所有を発生させ、ハラスメントが法概念を生んだことを論じたい。

不十分ながら、男と女の愛が信頼の基盤であることは、先のエントリーで論じた。では、なぜそうなったのかをここでは話したい。

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目次

ポロメオの結び目モデル

嫉妬がなぜ所有を発生させるのか論じたい。それは、男女間の愛が不完全であるから。桃知さんのポロメオの結び目に戻ろう。

天鬻 - HPO機密日誌

先のエントリーとは矛盾するように聞こえるが、人は長ずるにつれて人を信頼しなくなるものだ。親子、正確には母子関係においてのみ、幻想として想定される一体性、絶対の信頼、無償の愛があったと人は信じている。いわば、このポロメオの結び目すらが分化しておらず3つの輪がまだ未分化な状態として人は生まれ、親に育てられる。そこには、絶対の信頼感があり、自分が与えられて育っていくという交換と経済が一体として存在している。

3つの輪として分化する、親子の関係性にくさびが打たれることによって、子供から大人へと成長していく。くさびを打たれるので、さまざまな痛みを伴いながら1つの輪が3つの輪へと分化していく。「贈与」の輪の分離、すなわち「贈与」行為の主体となった時に、人と人との関係性において大人となったと言える。また、「交換」の輪が外形的に分化しきった時、経済的に大人になったと言われる。男と女の愛とは、互いの「贈与」も「交換」も「純粋贈与」の付随物だと瞬間、擬制される。3つの輪が未分化だった幼児の時に帰る。「大人」の機能を停止させ、「子供」に帰ることによってのみ、恋愛は成就しうる。相手に対して「無償の愛」を抱けると幻想する。

交流分析において、この関係性を見てみる。

ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ビビリ、ムカムカ。これらの5つの要素は、そのままではないが、交流分析のFC(Free Child:自由な子供)、NP(Nurturing Parent:養育的な親)、CP(Critical Parent:規範的な親)、AC(Adaptive Child:他者順応な子供)、A(Adult:大人、理性)にちかい。

「インサイド・ヘッド」(ネタバレあり) - HPO機密日誌

大人の健全な関係性は「A:大人」から始まる。儀礼的なあいさつ、社会的な地位情報のやりとりなどがこれにあたる。いうまでもなく親子関係では、「C:子供」と「P:親」の心の機能がそれぞれの主体の中で発揮され、建設的なものであれ(FC:自由な子供−NP:養育する親)、抑圧的なものであれ(AC:適応する子供−CP:批判する親)、やりとりが始める。恋愛関係においては、文脈に応じて「FC−NP」から始まる(「彼って、固い人かと思っていたけど、案外子供っぽいところがあるのね、あんなに目を輝かせてる」)。一方的にFCが男、NPが女と固定的になるのではなく、その役割がくるくると入れ替わる中で男女の仲は深まっていく(「ああ、彼女のさびしげな背中を見ていると抱きしめてあげたくなる!」)。そして、どこかで「C:子供」と「P:親」の役割が不分明になり、どこまでもどこまでもFCでいても相手が許容してくれると幻想していく。

男と女の愛が深まるについて、どこか子供じみたやりとりが増えるのはこのせいではないか?男と女が追いかけっこをしたり、水をかけあったり、ふざけあうさまは明らかに子供(FC)と子供(FC)のやりとり。本当の無償の愛ではなくとも、お互いがお互いに子供同士に還って無償の愛を模倣しあう中で、いのちのやりとりへとつながっていく。子供を産むか産まないかという選択をする時点で命のやりとりなのだとここでは指摘していく。

ポロメオに戻れば、3つの輪、特に無償贈与と贈与の輪が十分に接近してくるのがこの過程であると。

豚か女神か?

近づいたものは、いつしか離れなければならない。男女の愛と親子の愛。一般的に考えれば、前者はどこかに打算を含み、後者は無償の愛と考えられる。多くの恋愛の悲喜劇とは、この二つの混同から始まると考えれる。前述のように、男と女の愛は不回避にこの混同から始まる。

www.yotuba.xyz

以前、夏目漱石の「夢十夜」を引きながら男と女の関係について書いた。この箇所。

 女といっしょに草の上を歩いて行くと、急に絶壁の天辺へ出た。その時女が庄太郎に、ここから飛び込んで御覧なさいと云った。底を覗いて見ると、切岸は見えるが底は見えない。庄太郎はまたパナマの帽子を脱いで再三辞退した。すると女が、もし思い切って飛び込まなければ、豚に舐められますが好うござんすかと聞いた。庄太郎は豚と雲右衛門が大嫌だった。けれども命には易(か)えられないと思って、やっぱり飛び込むのを見合せていた。ところへ豚が一匹鼻を鳴らして来た。庄太郎は仕方なしに、持っていた細い檳榔樹(びんろうじゅ)の洋杖で、豚の鼻頭を打った。豚はぐうと云いながら、ころりと引っ繰り返って、絶壁の下へ落ちて行った。庄太郎はほっと一と息接(いきつ)いでいるとまた一匹の豚が大きな鼻を庄太郎に擦りつけに来た。

夢十夜 - 暇つぶし青空文庫

この豚は次から次へと再現なく出てくる。しまいには、庄太郎は重い病になってしまう。「夏目漱石の妻」 第1回・第2回 - HPO機密日誌を見た後であると、この「豚」という妻に対する評価はあまりに不当だと言いたくなるが、以前のエントリーをそのまま引くにとどめる。

まことにまことに男と女の話はかならず命のやりとりにつながる。それは「夢十夜」のとおり。そして、人として生まれてきてその問題を避けて通るわけにはいかない。いや、避けて通る方が地獄への道に直結している。

妻は豚か?それとも、女神か? - HPO機密日誌

豚のようにうんざりする存在であっても、恵みを与えるてくる女神(男神)であっても、男と女の関係はどこかで「いのちのやりとり」に行き着く。しついこいようだが、どの道を通ってもここにたどり着く。なぜなら、男と女の愛は無償の愛の擬制だから。このことを、「擬制」と「豚と女神」の関係をさきのポロメオに矢印として入れてみることで示す。

ポロメオ、愛、経済

愛の果てに結婚に至った時の「愛の擬制」が女神の神性の獲得と喪失、「結婚経済」が「豚」の現実を示すのはいうまでもない。男と女は既に大人だ。子供ではない。お互いがお互いに対して、無償の愛を無限に注ぐことはできない。お互いがお互いに無償の愛を欲望しながらも、その成就が不可能だとどこかで理解する。この矢印のように、引力と斥力がほどよく働き男と女の関係性が維持される(どれだけの期間かは別の問題として・・・、豚と女神の間をいったりきたりしながらも・・・)。

それでも、この引力と斥力のつりあいにおいて、ポロメオの3つの輪が分化してから初めて男女の愛において外形化された信頼がここで生まれた。

嫉妬と所有

男と女の愛は擬制でしかない。擬制が不可避にもたらす亀裂を、意図的に相手に使えば、昨日論じたようにハラスメント、暴力となる。意図せざるものであり、意識化されていない互いの裏切りは、狂気へとつながる。

hpo.hatenablog.com

ハラスメント、狂気への契機はいうまでもなく嫉妬だ。男女の愛の結果としての嫉妬からいくつの悲喜劇が生まれた来たかは知らない。これまた類推を許されれば、人類の歴史、人類の数だけあると言えよう。逆に言えば、まさにこの嫉妬の結果として家族が誕生した瞬間からネアンデルタール人と私達人類の先祖との間の運命を分けたのだと主張したい。

ネアンデルタール人は猿と同様の群れの形態であったのではないだろうか?アルファメールと女子供の群れ。それが、道具の進歩により群れと群れとの争いの激化してきた。これまではと圧倒的に死傷率があがったのだろう。戦争の発生だ。より多くの男を取り込まざるをえなくなった。結果、乱婚を許容する群れの状態が発生しネアンデルタール人の中で留まった。であるがゆえに、大脳も、両手も私達同様に上手に使えたのに違いないのに、経済を成長させられなかった。文明を発祥させることができなかった。

いくたのハラスメントと暴力の果てに、「家族」を制度化することに成功したのが私達の先祖ではないだろうか?男と女の愛という狂気を含む危険な力は、本能が壊れてしまった種である人類にはどうしても必須だった。この愛という狂気を自分達の群れの中で飼い慣らすには、儀礼を産み出すしかなかった。男が女が対で所有され合う関係を群れの中で認める行為が結婚となり、家族の単位の形成へと進んだ。男が女を、女が男を所有し、家族で暮らすにいたり、相手への愛を外物に投与することによりさまざまな「所有物」の概念が生まれたのではないだろうか?群れの中で、男と女の狂気を封じ込めるためには、儀礼が必要であったし、それが一般化して、群れのルール、部族のルール、社会のルールへと変わっていった。男と女の狂気を封じこめる力が儀礼の根源であり、法律の淵源なのだ。


素描もいいところだし、人が読んでわかるしろものではないが、私が現在至った人の世の成り立ちについての三日間に渡る考察を一端ここまでとする。よくよく咀嚼してまたトライしたテーマである。

この3日間のエントリーを桃知さんに捧げたい。

愛と暴力と経済

昨日は、信頼が基盤としてあって初めて専業化が起こり、豊かさが生まれることを論じた*1。今日は、その裏面に存在する力について語りたい。愛についてだ。

アダム・スミスは人の倫理性と直接市場をつないで見るべきではなかった。人の生産性向上こそを見るべきだった、声高に訴えるべきだった。「市場」というわけのわからないものにそなわった「神の見えざる手」という神秘の力が市場を成長させたのではない。経済と社会を発展させたのではない。ましてや、アダム・スミスがよく誤読されているように「個人の欲望の解放」が市場のイノベーションを直接にもたらしたのではない。近代以降、人の自由が増し、人が人をより信頼できるようになり、一人一人が自分の仕事に専門特化して生産性を高めたので、結果として「資本主義+自由主義」は成長した。

アダム・スミスの間違い - HPO機密日誌

経済発展と豊かさの基盤となる信頼とは、私は愛から始まったと考えている。十万年前には打製石器を編み出せたネアンデルタール人は、共同作業ができなかったと聞く。出典をいま見いだせないが、獲物があれば全部の群れが駆けつけたことを示す遺跡があると聞く。脳や両手の進化は十分であっても、この個と個の信頼があったかなかったかが、ネアンデルタール人と私たちの先祖との違いであったと。想像にすぎないが、私達の先祖は少なくとも男女の役割の分担を行うことができたのだ。この最初の男女の役割分担から、現在に至るまで個と個の間の信頼性が強化され、役割分担が進み、生産性が高まり、結果として選択肢(自由)を増し続けるというよきスパイラルをたぶん万年の単位で続けて来れた。

愛こそが大切なのだ。ここで大切なのが、信頼の基盤となる無償の愛、ももちさんのおっしゃる「純粋贈与」だ。個と個の愛ははかない。それを、あえて自身の根源、母親から授かった乳のような純粋贈与だと全面的に信頼できたかどうかが大切。

ももちさんがいくつも考察されているよに、部族民の経済、農業経済、資本主義経済、あるいは、その主体を個人、地域、会社、国とおいても、いずれにも「純粋贈与」を与えてくれる存在がなければ、経済行為自体はなりたたない。人の側からみれば、その経済はやはり「欲望」を原動力としている。

天鬻 - HPO機密日誌

*2

純粋贈与を男女の間で感じられるようになったことが、役割分担できるかできないかの分水嶺であった。ネアンデルタール人と我々の先祖を分けた。だからこそ、男女の愛において通常は擬制されている純粋贈与の源を失う時、人は全てを失ったかのように感じてしまう。この文脈において、増田の痛みがひしひしと伝わってくる。

anond.hatelabo.jp

人の存立の基盤、人と人との信頼の基盤である純粋贈与を、他人をコントロールすたるために使用することを、安冨先生は「ハラスメント」と呼ばれた。安冨先生が、「ハラスメント」の分析をされた先にこそ、本当の「経済学の船出 ―創発の海へ」があったはずだ。*3

リアルの世界は、支配しようとする意思で混雑している。自分の意思を無理やりに通すことを「暴力」と呼びたい。愛だと口ではいいながら、愛の名のもとに相手を支配することは暴力だ。安冨歩先生がハラスメントと呼んだのは、愛の形をとって支配しようとする意思といえる。

ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)

ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)

愛と嫉妬と支配と暴力 - HPO機密日誌

このハラスメントこそが、世の暴力の元であると私は考える。ありとあらゆる暴力と戦争は、男と女の愛とハラスメントに帰因すると証明したいが、このエントリーでは余白が足りない。

*1:アダム・スミスの間違い - HPO機密日誌

*2:私はこの時点では「欲望」こそが先にあると考えていた。しかし、欲望だけでは信頼は生まれない。分業も生まれない。豊富な選択肢という「豊かさ」も生まれない。人は人との関係性においてのみ、経済活動を行うことが出来る。人として生きることができる。
hidekih.cocolog-nifty.com

*3:私は個人を攻撃することをこのブログでは控えていた。しかし、敢えて名指しで主張しておきたい。本来向かうべき方向から安冨先生を堕落させたのは、深尾葉子氏であると。
日本の男を喰い尽くすタガメ女の正体 (講談社+α新書)

アダム・スミスの間違い

目次

アダム・スミスは視点を間違えている。

アダム・スミスは人の倫理性と直接市場をつないで見るべきではなかった。人の生産性向上こそを見るべきだった、声高に訴えるべきだった。「市場」というわけのわからないものにそなわった「神の見えざる手」という神秘の力が市場を成長させたのではない。経済と社会を発展させたのではない。ましてや、アダム・スミスがよく誤読されているように「個人の欲望の解放」が市場のイノベーションを直接にもたらしたのではない。近代以降、人の自由が増し、人が人をより信頼できるようになり、一人一人が自分の仕事に専門特化して生産性を高めたので、結果として「資本主義+自由主義」は成長した。また、その経済環境、社会の豊かさの進展のゆえに「資本主義+自由主義」が、より人が専門特化できる環境を整えた。それ以外のなにものでもない。自分が自分の仕事に対してどれだけ専門特化できるかのみが、人類の経済成長の源なのだ。

自由主義から見ていこう。

自由主義は、個人の創意工夫をもたらす。隷属状態、農奴状態では、イノベーションが起こらなかったのは歴史の当たり前。どこまでの自由なのか、誰からの自由なのか、歴史の変遷にのっとって考えるのはかなり楽しい作業となるだろう。源氏物語の各階層の登場人物たちの「自由」を類推するのも趣き深い。戦国時代と言われる国家間で生きるか、死ぬかの争いをしていた時代の人々の自由も切実であろう。概ね、自由と豊かさは比例していると歴史を概観したときに受け止められる。ここでは、いっそばっさり「より多くの人々に、より多くの自由が与えられた時代にイノベーションが起こる」と仮定しておこう。安富先生のお考えによれば、その時代、その社会の選択肢の多さこそが、豊かさであると。この安冨先生のご指摘は、新しい経済学を定義するに値するテーゼであり、人のおもむくべき未来の方向を包含している。

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実は、自由主義、個人の自由の前提条件がある。自由が成り立つためには、お互いの「信頼」が必須だ。自分が自由であるとは、誰かが明日食べるパンを作ってくれている、そして、それを売ってくれる人がいると信じるから自分の仕事に対して自由でいられる。この信頼がなければ、人の社会とけものの社会の分岐点がなくなる。人の生活はけものの生活となる。自由主義も、資本主義もない。この経緯は、アダム・スミスによって「道徳感情論」で書かれている。

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マット・リドレーも最新の科学の知見に基づき自由の前提である「徳」について論じている。

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自由と徳、倫理、法律は矛盾するとよく論じられるが言葉の遊びにすぎない。先の仮定のように、自由の先にあるもの、人の豊かさとはいかに選択肢が豊富にあるかだという考えに立てば人の信頼の基盤となる道徳、倫理と、人の意思の自由は矛盾しない。様々なルールに従って描かれた芸術、文芸を見れば、ルールの中にこそ自由がある、表現の力強さがあるとすら言えるだらう。経済活動も同じだ。「経営は芸術だ」と、ヒルトンは語ったと聞く。倫理、道徳、ルールがあるからこそ自由は存在する。

次に、なぜ自由だけでなく資本主義が大切か?

それは、部分最適を乗り越えるためだ。ルールが人の真の自由を阻害するときに、そのルールを改定する力となるからだ。なぜ資本は集中されなければならないか?なぜ、絶対王制では足りなかったのか?なぜ、共産主義は滅びたのか?いずれも、自由、選択肢の多様性がなければ、既存の枠組みを超えたイノベーションが起こりえないから。資本の蓄積、イノベーションを可能とする自由と信頼と、それらの源である徳がなければ、起こりえない。人に見えるのは常に部分最適のみ。社会主義計算論争共産主義社会、人が作った法律、ルールの盲進は表裏一体である。

適応度勾配を全力で走り続けるのか?いまこの場所で創造的無能を得るのか? - HPO機密日誌

人と人が法のもとに平等であるのは、長い人類の歴史の中で培われた叡智であろう。しかし、人と人との相互作用は、法体系はもちろん、一人の権力者はおろか一国の法の秩序を担う人々、機関をすら凌駕する。法体系は、部分最適しかもたらさない。「戦争が相手の憲法を書き換える行為」であるならば、人は既存の部分最適でしかない適応度勾配に居続け、淘汰されていくしかない。

真のイノベーターとは?

私は以上のことを、「小倉昌男 経営学」を読んで学んだ。この方こそ真のイノベーターだ。

小倉昌男 経営学

小倉昌男 経営学

ザ・ワースト・オイスター・デイ・4

うう、四日目。いくらなんでも仕事もあるので朝から仕事に行った。最低限のことだけ済ませ、退社。以前から考えれば、三日も会社をあけけてて大丈夫になっている事にプチ感動。十年前は二日と開けられなかったように思う。病気だと言えることも幸せのうちかもしれない。

また、実はこの二日はどちらかと言うとお付き合いの予定であったので事情をLINEや、メールで知らせて勘弁してもらえた。今となると、お付き合いの予定の方が多くなってきている。ドラッカーの言う通り、エグゼクティブのマネジメント改革は時間のマネジメントからである。しっかり、回復したら自分でルールを決めておつきあいを減らさないと、メモメモ。

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

で、結局昨日今日で「ヤマト2199」見終わってしまった!なんたること!それだけのエネルギーがあれば出社しろ、仕事しろと言う同僚の怨さの声が聞こえてきそうだ。

それでも、このリメイクされたヤマトは最高だ。総監督の出渕裕さん天才!オリジナルで感じていた矛盾点を私が気づいた限りポジティブな形で整合性が取れている。しかも、名場面も私のようなオールドファンのために再現し、なおかつヤマトのイスカンダルへの旅に新たな意味を加え、この先に続くシリーズへの布石も売ってある。この不可能な要望を全て満たしている。

出渕裕 - Wikipedia

ああ、明日からは真面目に仕事しよっと!

(ザ・ワースト・オイスター・デイ終わり、多分・・・。)

ザ・ワースト・オイスター・デイ・3

ほぼ昨日の繰り返し。くだんのドクターGの診察以外は、寝床とトイレとOS-1。あ、それと長時間寝ていると腰が痛くなるので、医者と薬局に無理を言って湿布剤も買ってきた。ようやくオイスター・モンスターと戦う準備が三日目にしてできた。

その間に一昨日から痛みを忘れるために、どこでもできる読書とビデオに走った。昼に寝てしまうと夜ねれないのも学習したので、昼の時間は痛みをこらえながらできるだけ起きているために仕方なく。

観光立国の正体 (新潮新書)

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最後まで読んで腑に落ちるものがあった。脂汗をかきながら、眠れぬ夜を藻谷さんと山田さんと過ごすことになるとは思っていなかった。

実際には「ヤマト」はアマゾンプライムで見た。アマゾンプライム最高!

こういう具合の悪い時、不思議になにかワンフレーズだけ、一考え方だけが痛みの中でリフレインする。いまはもう思い出せないが、「正体」の中の地方の観光産業の大ボスや、ヤマトの衛星爆弾が無限にリピートしていた。